『散歩哲学』

書きかけの「Urban Walk」が次第に増えてきて、現時点で、「Vision 2034 Tokyo」の中でも最初のパートを構成する重要項目になっています。なぜ「Urban Walk」がそれほど重要なのか?

とりあえず今のところそうしているわけですが、先日、『散歩哲学』という新書が出ているのに気づき、何かヒントが得られるのではないかと、すぐに読んでみました。島田雅彦著、ハヤカワ新書21、2024.2.25刊。副題は「よく歩き、よく考える」。

特に前半の「プロローグ」「第1章」「第2章」あたりに「散歩哲学」の核心に迫りそうな言葉やアイデアが書かれていました。後半は応用編・事例編となるため、ここではもう少し「散歩哲学」そのものの理論的側面のようなものを仮に整理して「Urban Walk」の意義につなげるべく、補助的にもう一冊、新書の力も借りて(『東京裏返し 社会学的街歩きガイド』(吉見俊哉著、集英社新書1033、2020.8.22刊))整理してみます。(島田p〇〇、吉見p〇〇のように引用元を表記。)

 

起。「読書も、テキストの森に踏み込み、コトバと出会い、刺激を受けるという意味では、散歩なのである。そして、散歩は街や山谷に埋め込まれた意味やイメージを発掘するという意味では、読書なのである」(島田p9)。「私たちが十分に敏感であるならば、同じ一つの地域の街歩きにおいても、そこに重層するいくつもの時間とその切れ目を発見していくことができるのです」(吉見p10-11)。

では、いつでも誰でもそのような発掘や発見ができるのか、どのような場合にできるのかについて考えると、

承。「ですから街歩きの本質は、日常とは異なる物語的時間を、日常的な都市風景のなかで生きることにあります」(吉見p8)。「産業社会に慣れ親しんだ私たちは、いつも時間に追われている。仕事や約束事などで予定は詰まっている。規則正しく定時に起床して、定時に食事をし、定時に寝るというライフスタイルを送っている。しかし、失職したり、退職したりした途端、縄文人と同じ時間軸に戻ることになる。森の中をふらふら歩いていれば、自ずと、、(以下省略)」(島田p28)。

ということで、自らが変化することで見えなかったものも見えてくる、という哲学的な話へとつながっていく。

転。さて、そうして「縄文人と同じ時間軸に」戻った自分を観察してみると、「人は何か特定のテーマについて考えている時に限って、自分は思考をしているという自覚をもつかもしれない。しかしその実はもっと不埒で、同時に並列的にいろんなことを考えている。とりわけ放心状態でボーッとしている時というのは、自分では何も考えていないと思っているかもしれないが、単に特定テーマで考えていないだけであって、同時にさまざまな想念が浮かんでいる状態にある」(島田p62)。

結。さらに人間にとって「街歩き」のようなことがどれくらい重要なのかを考えてみると、「幼児が歩行訓練に費やす二年間は、言語を獲得する時間と重なるので、二つの能力は相乗効果で発達する。歩行能力の獲得によって、好奇心が一層刺激され、満たされる。また移動の自由によって、さまざまな他者との出会い、外界とのコミュニケーションの機会がもたらされ、言語の修得が促進され、知性の拡張が爆発的に起きるのだ」(島田p33)。いや~。大人と幼児は違うでしょ、と思うかもしれないけれど、この部分は大人(へ)の成長・成熟・進化についてもあてはまるのかもしれない。さらに、「直立二足歩行こそが、人類の進化のきっかけとなったといえる」(島田p18)。「たとえ、杖や車椅子を使っても、移動の自由と権利だけは手放してはならない」(島田p16)。

 

いただいたアイデアも参考にして、さらに「Urban Walk」をつづけていきたいと思います。

 

 

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『LE CORBUSIER’S CHANDIGARH REVISITED』

ル・コルビュジェが計画・設計したとされるチャンディガール。

そのチャンディガールにかつて住み、インドで学士号をとった後アメリカに移り住み今はワシントン大学教授(建築学)のVIKRAMADITYA PRAKASH氏が綴った待望の書が出ました。「待望」しているのは私だけかもしれないので少し説明すると、これまでチャンディガールは「あんな人間性の薄い近代都市計画の見本のような都市は大嫌い」という反応と、「コルビュジェのつくったチャンディガールは世界遺産になったんだから、オリジナルな部分はそのまま保存すべきであって、それに反する不動産開発などもってのほかだ」という両極の評価になりがちで、2005年に彰国社から出版された『ル・コルビュジェのインド』がいくらか現実のチャンディガールに寄り添った分析・評価をしているものの、包括的にチャンディガールの行く末を論じたものがないと感じていたところ、2024年になって、この本をみつけたというものです。Routledge,2024。副題は「Preservation as Future Modernism」。

コンパクトにまとめられた4章構成で、第1章のイントロダクションに続き、「Ecology」「Democracy」「Information Technology」の3つが主要な部品です。第5章も一応ありますが、「あとがき」として‘Indian Future Modernism’についてまとめています。

この「Indian Future Modernism」が本書のキー・コンセプト(もっというと、「Future Modernism」をコンセプトとしている)。そのことについて「ここぞ」という文章が20頁の中ほどから書かれているのでざっくりまとめると、「チャンディガールのマスタープランはあるけれど、そのままパーフェクトに実現すればよいというものではない。現時点でもいまだ建設的な視点から将来に向かう途があるのだ」と。

特に印象に残った2章(Ecology)と4章(Information Technology)につき(要約風に)少し書きます。

 

第2章。ヒマラヤの麓に建設されたチャンディガールは自然との共生が重要との観点でマスタープランを見ると、水系に沿ってグリーンベルトが設定されているようには見える。けれどもそれはデザイン上の処理によって、決してエコロジカルにはなっていない。このような近代都市計画を否定する考えも強いが、一方でチャンディガールの街路樹などが育ち、「森林都市」と言えるほどになってきた。意識して自然との共生を進めることが‘Indian Future Modernism’への道である。(このことは『ル・コルビュジェのインド』の中の「もうひとつのチャンディーガル」p75-77でも論じられていたが、本書ではより包括的・実践的に都市と自然との関係を分析している)

第4章。コルビュジェには、チャンディガールでやり遂げられなかった‘Museum of Knowledge(MoK)’プロジェクトがあった。これは文字通り「知識の博物館」で、遡ると、第一次世界大戦後に「国際連盟」が設立された際、そうした政治的な機関とは別に、知識と科学の面から平和な世界を実現するべく構想されたもので、「Mundaneum(ムンダネウム)」などを経て、チャンディガールでMoKを建設することになっていた。けれどもそのようなものを建設すること自体に矛盾を含むものであり、できないままコルビュジェは亡くなり、現在までそれは「未完のプロジェクト」である。この不可能性にチャレンジすることもまた‘Indian Future Modernism’への道かもしれない。

 

題材はチャンディガールですが、近代都市計画のリデザイン全般にもかかわる「待望の書」です。理論的で実践的。資料や文献、写真や図面も豊富に掲載されているので、グッと深く研究するための導入の書にもなりそうです!

 

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