『ハピネス・カーブ 人生は50代で必ず好転する』

2019年7月21日の毎日新聞書評で本書を知りました。ジョナサン・ラウシュ著(多賀谷正子訳、田所昌幸解説)、CCCメディアハウス、2019.6.21刊。

原題はそのままですが、副題は「Why Life Gets Better After 50」なので、日本語の副題は微妙に異なったイメージとなります。

それはともかく、年齢を軸に据えて「幸福度」を測定すると、多くの国でそのグラフはU字曲線を描く。第4章がハピネス・カーブそのものの客観的描写にあてられ、国別のカーブの比較なども紹介されています。残念ながら日本は出ていませんが、中国やロシアが含まれています。正確には「U字」というよりも「U」字の底のカーブの部分。何歳が底になるかは国により違いがあるものの、ほとんどの場合、50代頃から「幸福度」は好転しはじめ加齢とともにどんどん良くなる。

このことをどうとらえるか。

本書の第8,9章が直接の処方に言及しているわけですが、むしろ、ハピネス・カーブがなぜU字状になるのかについて最新の研究成果により読み解いた5,6,7章、とりわけ6,7章を「都市イノベーション・next」的に注目したいと思います。

 

[関連記事]

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GNHと都市計画(その2)

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 ・幸福度」「誇り」とquality of city lifeとの関係 



日本開国と太平洋航路(横浜居留地と都市イノベーション(その3))

2つ前の「アメリカは一日にして成らず」に関連して。

今週火曜日に1コマ担当した、とある研修の場にサントドミンゴ(ドミニカ共和国)からの研修生が含まれていました。まだ行ったことのないカリブのこの都市に興味をもち、あとで調べてみると、この都市こそが、1492年にコロンブスがアメリカを「発見」したあと各地に勢力を拡大していくための拠点都市だったことを「発見」。

一方、アメリカ独立後の西部への開拓で、「指標として大陸横断鉄道がつながった1869年を区切りにしておきます」としたそのエネルギーが、さらに太平洋を越えてグルッとアジアまで達するストーリーは、そこでは考えていませんでした。

1869年といえば明治維新の翌年。なぜ明治維新かといえば、「黒船」がアメリカからやってきて日本に開国を迫り、幕府が倒れて新しい「近代」が訪れたのだと。グローバルに見直すと、ヨーロッパから大西洋を渡ってアメリカを1492年に「発見」したあと、(少し飛んで)アメリカが西へ西へと開拓を進めて太平洋に至り、そのエネルギーで太平洋を渡って日本に開国を迫る(実際にペリーが来たのは逆回りだったが)。その時までに東へ東へと勢力を拡大してきたイギリス等の列強国が日本に到達しようとしていたまさにその時、日米修好通商条約が突破口を開いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様な条約を1858年に締結。特に、開港された横浜がその後のエネルギーを受け止める場(都市)になります。そういう意味では、「世界が一つにつながった」のは1492年ではなく1858年だったといえなくもありません。

本当に「世界が一つにつながった」といえるためにはもう一つ。安定的な太平洋航路が確立されなければなりません。ペリーはそうした大陸間関係を築くべく、執念をもって十分な準備のもとに日本にやってきたのですが(『ペリー提督 海洋人の肖像』講談社現代新書1822、2005)、実際に定期航路が拓けたのは1867年のコロラド号から。サンフランシスコと香港を結ぶこの船がはじめて横浜に寄港したのが1867年1月24日。

ヨーロッパからみれば東回りでも西回りでも日本ははるかかなたの地で、日本の開港地横浜が、東回りと西回りのエネルギーを同時に受け止める都市となった。そしてこのことをもって真に地球をグルグル回るという意味で「世界が一体化した」のである。とのストーリーは、かなり大げさながらワクワクするストーリーではあります。

 

[関連記事]

横浜居留地と都市イノベーション(その1)

横浜居留地と都市イノベーション(その2)

 

[参考]サンフランシスコの人口

1848 1000人

1849 25000人

1852 34776人

1860 56802人

1870 149473人

1880 233959人

1890 298997人

1900 342782人

1910 416912人

1920 506676人

1930 634394人

アソビル(横浜駅東口)

また来てしまいました。アソビル。

おとといの、とあるOB/OG会の二次会で来たばかりてす。今、「来た」と書いてしまいました。おととい来たのは地下の別の施設だったので、今日は地下のフード横丁みたいなところ。上の方にもいろいろありそうなので、また来ます。

 

再開発が検討されているものの、しばらく空いている郵便局別館の暫定利用。「都市イノベーション・next」的です!





アメリカは一日にして成らず(アメリカの開拓・都市計画500年史)

1776年7日4日はアメリカ独立の日(⇒関連記事1)。それにちなんで、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」してから21世紀に入るまでの500年を、「都市イノベーション・next」的にまとめます。

 

1492年から115年後の1607年に、北米植民地開拓のため、ロンドン・ヴァージニア会社によって3隻の船で105名の植民団が入植。そのジェームズタウンに最初の町を築こうとします。映画『ニューワールド』はその際の入植者と先住民との交流や確執を描いた音楽の美しい映画で、当時の入植の模様が描かれます。けれども「どこに都市を建設するかで、住民の将来を決めるかもしれないのだから」と、 『ローマは一日にして成らず』で指摘されたように、この場所は定住地には不向きで1699年に近くのウイリアムズバーグに拠点を移動。この間、ヨーロッパではホッブズが国家建設理論の基礎を築き、1776年の独立を思想面で支えます(⇒関連記事1)。1607年から数えると独立までに169年。

このあとのアメリカ開拓史は『勇気ある決断』(⇒関連記事2)で。アメリカをつくった「十大事業」(エリー運河、大陸横断鉄道、ホームステッド法など)が語られます。その際、具体的にどうやって「街」を築いたか(都市計画したか)については『タウンシップ』(ナカニシヤ出版、2015)がいいです(まだ本Blogで取り上げていません)。

ここまでが、どちらかというと「どうやってアメリカは開拓されたか」。指標として大陸横断鉄道がつながった1869年を区切りにしておきます(『勇気ある決断』のp81-82にはそのときのシーンがリアルに描かれている)。1776年の独立から全国土がつながる1869年まで93年。

この頃、ヨーロッパで起こった産業革命がアメリカにも波及して都市が急成長。とりわけ19世紀も後半になると新しい都市計画が必要になってきます。『New Urbanism & American Planning』(Emily Talen著、Routledge、2005刊。関連記事3)はそのあたりから始めて、20世紀末の「ニューアーバニズム運動」に至るアメリカ都市計画の歴史を理論的かつ緻密に描いています。そして現在2019年。1869年から2019年までが150年。

 

まとめると、発見(1492)→115年→入植(1607)→169年→独立(1776)→93年→大陸横断鉄道完成(1869)→150年→現在(2019)。

 

[関連記事]

  1. マグナカルタ(1215)とEU離脱(関連図書『思想のグローバル・ヒストリー』を文中で紹介している)
  2. 『勇気ある決断』
  3. 『New Urbanism & American Planning』

 

9月22日に「ニュータウン人・縁卓会議in港北ニュータウン」が開催されます

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縁卓会議0922ポスター


2006年に多摩ニュータウンではじまった「ニュータウン人・縁卓会議」が、本年、港北ニュータウンで開催されます。それぞれのニュータウンの課題に取り組むNPOなどが自発的に集まり情報交換するもので、午前のエクスカーションのあと、午後には、千里ニュータウン、泉北ニュータウン、多摩ニュータウン、高蔵寺ニュータウン、千葉海浜ニュータウン、金沢シーサイドタウン(横浜)、 ひばりが丘団地(東京)、港北ニュータウン(横浜)の報告と、「ワールドカフェ」方式のディスカッション「ニュータウンの新たな役割を考える」などが予定されています。そのあと立食懇談会。

「ニュータウン人・縁卓会議in港北ニュータウン実行委員会」が主催。港北ニュータウン研究会のメンバーもこの実行委員会に加わります。

 

(過去の縁卓会議の様子は、「ニュータウン人・縁卓会議」と検索するとたくさん出てきます。)

 

[参考]

港北ニュータウン研究会(facebook)

 

 

『これからの郊外のあり方とその実現方策に関する研究』報告書が刷り上がりました。

横浜市の郊外を対象とした調査研究報告書です。

第一章 新たな郊外像の概念的検討

第二章 農を含む郊外住宅地の将来ビジョン模索(ケーススタディ)

第三章 戸建専用住宅地区の利便性向上と農地の可能性(二低専の効果も含むケーススタディ)

第四章 郊外のこれからのビジョンを支える制度設計

 

第一生命財団の助成研究。昨日、報告書が届きました。声をかけていただきましたらお送りします。

 

[参考]【研究ノート】新しい都市計画システム

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20150424/1429839716

「【公開講座】横浜防火帯建築を読み解く」がシリーズで展開中

横浜の中心市街地を特徴づける防火建築帯を継続的に研究している藤岡先生が、横浜国大公開講座でもそれをテーマに議論を展開中です。

第1回は6月に終わってしまいましたが、次の第2回は7月17日。以後、9月、10月、11月と各回テーマを設けて議論が展開。まさに「都市イノベーション・next」です!

[公開講座の予定]

https://www.ynu.ac.jp/hus/sangaku/21879/detail.html

 

本年2月には調査結果について横浜市からプレス発表もあり、さまざまなメディアでも取り上げられました。

[横浜市の記者発表] 調査結果概要も詳しく掲載されています。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/koho-kocho/press/bunka/2018/20190227boukatai.files/20190227.pdf

 

 

NHKスペシャル「豪雨災害からどう命を守るのか、最前線からの報告」(6月30日夜)

昨年12月、JR伯備線に乗って倉敷駅を出たあと、しばらくの間、まだ災害の爪痕の残るまちの様子が間近に見えました(被災後5.5か月)。伊勢湾台風の前年に生まれた私は、よく親からそのときの大変さを聞かされたものです(私には記憶がないのですが、、)。

当番組で印象に残った2つのことを、忘れないように書き留めます。

 

1つ。今回も災害弱者の被害が大きかったこと。大きな河川の支流のまたその支流の深夜の決壊で数メートルの水位となり、1階にいた高齢女性が亡くなったケース。「大きな河川」の流量が増して「支流」の水が出られなくなり「またその支流」も玉突きで滞り決壊。水位計はそのような支流には設置されておらず深夜だったこともあり逃げられなかったのだと。当時を再現した実験もリアルで説得力がありました。

2つ。なぜ避難しなかったのか。避難指示が出ても、多くの人は避難するまでに至らない。こうした行政情報も重要な要素なのですが、実際に避難した人を調べてみるとこれだけで避難した人はごく少数。たいていは「たぶん大丈夫でしょう」との反応。あと2つの要素がある(3つすべてでなく3つのうちどれか1つあるいは2つ,3つ)というのが調査結果で、片方は(番組では「避難スイッチ」と呼んでいた)実際に異常現象などに遭遇したり自らの目で「危ない」ことを認識して避難へのスイッチが入ること、もう1つは近隣の方などから一緒に逃げましょうと誘われるなどの共助の取り組み。

 

これらだけで一般化はできません。けれどもちょうど先週もM市の立地適正化計画の居住誘導区域の話をしていて、1つめのような議論をまさに確認しようとしていたところ。2つめの議論は密集市街地等で「危ないと言われているのになぜ耐震改修や建替えが行われないのか」に近いもの。科学的にも、実践的にも、解決すべき課題はいくつもあります。

『レオナルド・ダ・ヴィンチ(上)(下)』

「都市イノベーションworld」第100話。

ウォルター・アイザックソン著(土方奈美訳)、文藝春秋2019.3,30刊。

 

7200ページの自筆メモを頼りにレオナルド・ダ・ヴィンチに迫る新スタイルの伝記。その描写を通して、ダ・ヴィンチの何がイノベーションの源泉だったかが500年の時を超えて手に取るように伝わってきます。訳のなめらかさと、500年前のカラーがきれいに見える印刷にも助けられた、秀逸な内容です。

 

ダ・ヴィンチイノベーション力の源を二つに絞ると、第一に、観察。

「キツツキの舌を描写せよ」。これはダ・ヴィンチ・コードではなく、観察ということを象徴するダ・ヴィンチ自身のテーマです。動態視力が恐ろしく良くなければ、また、じっと何時間も集中して観察しなければ、自筆メモのような描写はできません。

第二に、描写。「モナリザ」のダ・ヴィンチから入ろうとしてもほとんど理解不能ですが、本書に示された多くの自筆メモを見ていくと、「そうか。物事をとらえるというのは、こうやって描写することによって(自分もわかるし)万人に伝わることなんだな」ということがわかります。鳥の羽ばたきも、なぜ、どうやって鳥は飛べるのかということも。人間の表情や動きも。谷川の流れも。渦も。

 

ある意味、観察と描写がちゃんとできれば、それだけでイノベーションなのだと。「それだけ」と書きましたが、徹底的で正確な「ちゃんと」でないとダメなので、観察は徹底して、桁違いにいくつも、いろいろなものについて行われる。見えない部分は想像力で補い、矛盾があればまた観察して修正する。その結果、法則のようなものも見えてくる。

また、第二の要素だけとっても、その描写・表現がさまざまな技法やセンスに支えられた高い芸術レベルであることで、観察したことや想像したことがさらに本当らしくなる。逆に、描くことによって発見があり、さらにそこに絞って観察したり想像するとまた発見がある。

こうした知的営みをするには科学だけではダメで、芸術だけでも限界がある。ゆえに、芸術の中心であるフィレンツェよりも、画家、舞台芸術家、科学者、数学者、技術者の集まる「ミラノの知的環境のほうが適している」(下・p149)とダ・ヴィンチは考えていた。イノベーションを促す都市や大学や組織のありようをも示唆する、余韻の残る2冊でした。

 

〈都市イノベーションworld・完〉