モビリティーズ 移動の社会学

移動を切り口にした新しい理論の体系化に挑戦した書。ジョン・アーリ著(吉原直樹ら訳)、作品社2015.3.20刊。
訳者が「これまで断片的に語られてきたことにたいして、さしあたりトータルな認識が示されている」と評していることもあり、アーリについてこれまで知らなかった自分自身が、「モビリティーズ」という魅力的な切り口に誘われ「都市イノベーション的に」考えたことを仮にまとめてみます。
まず、バウマンの『リキッド・モダニティ〜液状化する社会』が社会やコミュニティそのものの液状化について書いているとすると、アーリの本書は、そうして解体された人間のモビリティーそのものを体系的に扱おうとしています。第3章の「モビリティーズ・パラダイム」が、その認識を最も端的にまとめている箇所です。しかし、「さしあたりトータルな認識が示されている」段階のためか、最後の結論に展望がみえません。
そこで、都市計画の立場から「このように読めるかもしれない」と思われる示唆を以下に記してみます。
たとえば都市計画を「空間計画」とし、土地利用計画と交通計画がうまくリンクしているとよい、というのが一般的理解とすると、空間はモビリティーによりゆがんでいる(たとえば新幹線で早く到達できる範囲が実際には東京にグッと近くなる)。そのゆがみは日々変動しており、人により、また、何に着目するかにより異なる。3次元だと思っていた私たちの世界は、実は、複雑な4次元の世界なのだと。
ある意味、時間を結果的に操作できる程度や内容が“モビリティ”という概念で、著者が「ネットワーク資本」と呼んでいるのは、固定化してみえる3次元の空間を操作できる別の次元の資本です。時間そのものは操作できないけれども、結果において時間は操作される、できる、している、と。
例えば、スマートフォンを可能にするのはその端末の開発だけでなく、クラウドの正体である巨大コンピューターセンターや(『クラウド化する世界』ニコラス・G・カー著、翔泳社、2008)、各国の情報環境にうまく馴染むためのさまざまな技術・交渉や、「圏外」にならないように地道に建てている基地局等も含めたトータルなシステムです。著者はこれをネクサス・システムと呼び、単純なシリーズ・システムと区別しています。
馬車や電車、自動車などのモビリティーは、ついに電子的なものにまで進化し、最近ではそれがウェアラブル化することで、人間が端末化しつつあるのかもしれません。ネットワーク資本による強固なネクサス・システムの構築が人間を、、、ここから先、著者はディストピア的将来を語るのですが、それはとりあえず横に置いておき、本書の最初の頃(特に第4章で)強調していた、モビリティーには身体性や経済性・政治性・歴史性が伴うことを思い出してみます。
オースマンのパリ大改造により「都市は、自らの徒歩行為を通して都市を消費できる人びとの所有物になったのである」(p105。Edholm(1993)の引用による)、と。
また、貴族の所有地で覆われていた郊外にアクセスできるよう、中産階級たちが政治的に勝ち取った通行権についても詳しく述べています。
単なる「移動」ではなく、そのような多義的な意味合いをもつ「モビリティー」というトータルな概念。
3次元としての空間の中で土地利用計画と交通計画を調整する、というような固定的見方を超えて、モビリティーの概念を介した4次元で考えることから、新しい都市イノベーションの可能性がひらけてくるかもしれません。