八戸からいわきまで・2016春(その1)

本ブログで「はじめて復興地域全体をとらえた」のが2013年8月。被災から2年半後の様子です。この春、「3.11」から5年となるのを機に、都市計画の立場から再度、復興地域全体をとらえ、復興の現状を確認します。
前回の「八戸からいわきまで」では、公共交通の復旧・復興を軸に、4つの地域に分けて課題をとらえました。第一が三陸鉄道区間。第二がJR山田線、大船渡線気仙沼線沿線、第三が復興まちづくり事業と合わせた仙台大都市圏の各エリアの復興、第四が原発被災区域のJR常磐線不通区間です。
(その1)では特に、第二のJR山田線、大船渡線気仙沼線沿線をとらえます。まちなかの再生状況を、都市の規模、被災状況なども勘案しながら総合的にとらえ、考えます。

宮古−釜石間で運休しているJR山田線はあのあと復旧が決まり、JRが再生させて三陸鉄道に移管することになりました。各所で復旧工事がはじまっています。
宮古は中心部の被害が比較的大きくなく、この地域の中心都市としての存在感があります。けれども市役所付近の被害がやや大きかったこともあり、駅南に市役所を移転して新たな拠点とするべく、現在取り組みがはじまっています。中心市街地としてトータルにどのように再構成していけるか、注目したいと思います。
山田は中心部の嵩上げも進み、市街地としての雰囲気が少し出てきました。認定された「まちなか再生計画」(⇒参考記事)の姿を現場でイメージしようとすると、まだ区画が工事中のため、どこが駅になりどこに中心施設が建つ予定なのかまでははっきりわかりません。けれども何か、街として再生されつつある雰囲気が伝わってきます。
大槌は3月12日に、「100区画の住宅地と災害公営住宅1棟が完成し」まちびらき式が行われたと報じられました。現地を歩いてみると、大規模な嵩上げ地がまだ工事中のため、なかなか将来の姿を想像するのは困難です。街としての再生はもう少し先になりそうな印象です。2年半前の時点ではまだ嵩上げ工事の始まる前でしたから、その「差」は大きいと感じます。JR山田線の再生も含めていよいよこれからです。
釜石の中心部にはかなり被害があり2年半前には空き地が目立ちましたが、イオンの開業(かなり大規模)とその前面部分の再整備等で、まちなかに明確な「中心」ができた感じになりました。ヨコミゾマコト設計の市民ホールも来年秋のオープンをめざしています。メイン通り沿いには被災した銀行なども建替えられるなどして、また、いくらか周囲の再建も進んできました。元は「ビル」だったところも、気のせいか、やや軽量で現代風の建築に置き換わってきていると感じます。
以上のように、宮古と釜石という都市に支えられつつ、JR山田線の再生と合わせて山田、大槌の順に徐々に街の雰囲気が出てくるとのイメージをつかみました。JR山田線区間三陸鉄道に移管されると、北は久慈から南は盛(大船渡)まで通しの経営となり、情報発信という意味では一体的な地域感が出てくるかもしれません。

大船渡線気仙沼線沿線は、現在、BRTでの復旧です。このままいくと、大船渡線区間(盛−気仙沼)はBRTのまま、気仙沼線区間(気仙沼−柳津(一部前谷地まで))もBRTのままになりそうな状況です。この区間にある大船渡、気仙沼という2都市が、被災にもかかわらず都市としての力を保持しながら自己再生する過程にあると感じます。
大船渡では、中心部に設定した津波復興拠点の「まちびらき」が3月13日に行われました。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20160205_1
「まちなか再生計画」も認定されたこの区域の復興は、本格的な復興市街地として姿をあらわしはじめました。その中心がプラザホテル。被災した旧プラザホテルから100メートルほどのBRTの駅前に新築。津波復興拠点の中では既にホテルやホームセンターも工事中。再生への強い意志のようなものを感じます。一昨年に開業した新市場は建築としてもシンボリックで、津波復興拠点から新市場に至るエリアに注目したいと思います。
気仙沼も都市としての力を保持しながら自己再生中。その焦点となる魚町・南町でも区画整理事業が進んでいます。他の2地区(鹿折、南気仙沼)の事業はURが受託(平成29年度まで)、魚町・南町は民間JVが事業を受託しています(平成30年度まで)。ここではやはり、現在、海と一体となっている空間を、登録文化財の再建も含めてどのように再生させるかが課題です。時間はかかるかもしれませんが、都市のもつ自己再生力のようなものを感じます。
大船渡と気仙沼の間にある陸前高田。都市の中心部そのものが津波で甚大な被害。嵩上げの規模、特にマスとしての巨大さと高さを前に、「まちなか再生計画」に描かれた内容を、ついに想像することができませんでした。現在、嵩上げ地東方のイオン周辺、西方の竹駒ににぎわいの中心があり、嵩上げ地後方の丘陵部に住宅地や病院等があります。どのようにそれらと有機的に結びつきながら一体的な都市に再生できるか。
同様に、南三陸町。特にその中心地である志津川。丘陵部の都市機能の一部と合わせて、どのように町が再生されるか、「まちなみ再生計画」に描かれたにぎわいがどのように創り出されるのか。積み上げられた嵩上げ土群を前に、やはり想像できませんでした。
再生の姿が想像できなかったのは、三次元の空間に対する想像力不足や工事手順・内容に対する情報不足(不勉強)によるものも大きかったと思います。けれども、町の多くが被災してしまったときの、自己再生がきわめて難しく,時間も労力も忍耐力も要する困難な状況を強く感じる結果となりました。
逆に、都市というものがもつ、回復力、自己再生力に注目して、あるいはそれを信じて、日頃の都市計画の中で、どんなことがあってもすべてを失うようなことにならないよう深慮することがとても大切なことなんだと、知らされたような気がします。

[参考記事]
・まちなか再生計画と「まちづくり会社」等
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20160216/1455615465

[参考]本ブログの東日本大震災復興計画・復興事業「★統合ファイル
[参考]本ブログの災害復興・地域再生の新たなしくみ「☆リンクファイル