『都はなぜ移るのか 遷都の古代史』

794年に都となった京都はその後明治になるまでの1074年もの間、都でありつづけたのに、何故それ以前の都は短期間に幾度も遷都されたのか?
本書(仁藤敦史著、吉川弘文館歴史文化ライブラリー333、2011.12刊)は、さまざまな遷都を経てやがて平安京に至り「動かない都」になった理由を、それまでの都はまだ未熟な段階にあり、「ここが都である」ことを宮殿やインフラなどの「モノ」によって示すことはできたけれども、地方の豪族たちを従えられなかったことや、経済の未発達等がたび重なる遷都の原因だったとします。

最終的には、条坊により区画された空間ユニットの中に、位に応じて、(いろいろな主人がいるのではなく)王権のみに仕える都市貴族が定着しなければならず、そうしないと都としてのまとまりがつかず、そのような凝縮した都市空間ができるためには、政治経済構造そのものがそうなりうる段階に達していなければならなかった。けれども、そのようになるためには時間がかかり、645年から数えても794年までに149年を要しています。
難波宮(645-)についても、外交の窓口を開いて置けた時代のものであって、663年に白村江の戦いで敗れたあとの首都は、防衛上の理由から少し引っ込んだ近江に移されるなど、内政・外交および造都(都市計画)の面で十分の形になるまでには紆余曲折があったと理解できます。

そのように考えると、飛鳥(明日香)から数々の都を経てやがて平安京へ結実するプロセスが動的に、かつ進化プロセスとして理解できるとともに、794年以降不動となった京都という首都において、おそらくは初動期においてさまざまな工夫=都市イノベーションがあったのだろうと想像します。

〈都市イノベーション開墾・おわり〉