纏向遺跡再考〜グローバルな視点から

2013.2.5に書いた「纏向遺跡」が、本ブログのリンク集「日本の都市と都市計画」の最初の記事になっています。国内に限れば、最初の都市はここだったのではないか、との評価が現在のところ動いていないことによります。(将来動くかもしれない)
しかし「2世紀から3世紀あたり」と推定される“日本最初の都市”も、グローバルな視点みるとまったく見え方が異なってきます。ここではアジア的視点で、中国古代都市との関係をみてみます。

世界四大文明(説に従うならそ)の1つとされる「黄河文明」が生まれた現在の中国の都市は「城壁で囲まれていること」がその特徴で、城壁によりその外側の世界と区別されていたとされます(『中国文明の歴史』講談社現代新書1761、p28)。この都市の<内>と<外>という状態は「前221年の秦の始皇帝の中国統一までには、華北、華中の平野部では」<外>は「ことごとく中国化して姿を消し」た(同p64)。その後、「活発な軍事行動のため、大規模な人口の移動と都市集中がおこり、官僚層が厚くなって、知識階級が形成された」(同p80)。
纏向遺跡」となる日本の都市の原形がまだ出現していなかったと思われる紀元100年頃には中国の人口は5000万人を超えていたと推定されており、「順帝の時代(125〜144年)には、首都の洛陽の「太学」(大学)は240房、1850室の大規模なものとなり、太学生の数はやがて3万人を超えるにいたった」(同p84)。
既に2世紀にこのような都市的雰囲気がただよっていた中国が隋(581〜618)になった頃、ようやく都市計画を勉強するため留学し、持ち帰って、平城京などの形でそれを模したのでした。そのような方法は、古代中国を取り巻くアジア各地域でも実践されていきます。そのような方法から脱却し日本独自の都市イノベーションを起こすには、きわめて長い時間が必要とされたのでした。

【In evolution】日本の都市と都市計画
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