1850年の日本の都市人口

NHK大河ドラマ西郷どん』では先週、島津斉彬が新しい薩摩藩主となり、鹿児島に戻ってきました。1851年のこと。これからいよいよ西洋列強を意識した近代化に着手しますが、横浜にはまだペリーはあらわれず「漁村」状態。
城下町という都市形態が出てくる以前の「1500年」、各地の城下町が拠点として確立される「1650年」のあと、近代化直前のこの「1850年」の都市人口をみることで、都市イノベーションの大きな流れをとらえる節目とします。大きい順に並べると(カッコ内は1650年値。25000以上に限る。データが無く抜けている都市もある。斎藤誠治「江戸時代の都市人口」『地域開発』1984.9号による)、
江戸 1150000 (430000)
大坂 330000 (220000)
京都 290000 (430000)
金沢 118000 (114000)
名古屋116000 (87000)
江戸時代を通して江戸は巨大化。商都大阪が伸びて京都は衰弱。このあと、
仙台 48000 (57000)
伏見 46000 [京都の一部と考えれば上記京都は336000となる]
鹿児島42000 (50000)
熊本 41000
堺  41000 (69000)
福井 39000 (48000)
弘前 37000
松江 36000
鳥取 35000 (32000)
富山 33000
福岡博多32000 (53000)
長崎 31000 (37000)
盛岡 30000
彦根 29000 (38000)
高知 28000
秋田 27000
新潟 27000
奈良 27000 (35000)
会津若松25000 (27000)
なお、1650年に25000以上だった山田、岡山、甲府、山形は25000未満に減少。どちらかというと江戸時代初期に政治的拠点だった都市群は人口規模を減らし、大坂を筆頭に、経済力をつけてきた地方拠点都市がそれらにかわって伸びてきた感じがします。しかし、その伸びは200年の変化としてはむしろ「安定していた」と言うべき範囲です。日本全体が「太平の眠り」についていた(むしろ政治的にもそうさせていた)ことを人口が示しています。

けれども世界の先進諸国は市場を求めて世界に進出してきます。母都市の人口増は、どれだけ世界市場を飲み込んだかにかかわっているといえなくもないと思います。以下、チャンドラーの推定値。
1850年の世界の都市人口。ロンドン2320000、北京1648000、パリ1314000、広州875000、イスタンブール785000、江戸780000、ニューヨーク645000、ボンベイ575000、サンクトペテルブルク502000、ベルリン446000。
1875年の都市人口。ロンドン4210000、パリ2250000、ニューヨーク1900000、ベルリン1045000、ウィーン1020000、北京900000、イスタンブール873000、フィラデルフィア791000、東京780000、サンクトペテルブルク1418000。
1900年の都市人口。ロンドン6480000、パリ4242000、ニューヨーク3330000、ベルリン2707000、ウィーン1717000、北京1698000、東京1497000、サンクトペテルブルグ1439000、マンチェスター1435000、フィラデルフィア1418000。

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・1500年の都市人口
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170502/1493734131

【In evolution】日本の都市と都市計画
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