これまで、都市システムがグローバルに展開しはじめた「1500年」、産業革命に伴う都市の近代化への圧力が高まった「1850年」を都市イノベーションの節目として描いていますが、「1500年」の1つ前の節目を「1200年」とします。
「1200年」の世界の都市人口を、チャンドラーの推計により大きい順にみると、
杭州 250000
フェズ 200000
カイロ 200000
パガン 180000
鎌倉 175000
アンコール 150000
コンスタンティノポリス 150000
パレルモ 150000
マラケシュ 150000
セビリア 150000
ここまでで10都市ですが、参考のためもう少しあげると、
北京 130000
南京 130000
パリ 110000
広州 110000
開封 100000
バグダード 100000
他に100000なのが、ディムヤート、平安京、大理(中国雲南)
中国の諸都市が目立つほか、カンボジア(アンコール)やミヤンマー(パガン)の中心都市の中心性が高かったことも興味深いです。できたばかりの鎌倉が「世界第5位」になっているのも発見です。当時台頭してきた武家が開いた都市としていわば社会実験的なものだったといえるかもしれません(1250年には4位、1300年には5位でしたが1350年には25位までのリストから姿を消しています)。
ここでは文明と文明がせめぎ合っていた西方に着目します。
マラケシュ/フェズ−ディムヤート(ナイル河口)/カイロ−バグダードとアフリカ側の地中海等に沿ってイスラム都市が並び、セビリアとパレルモ(シチリア島)が向き合っていた。向き合っていたどころかイスラム勢力からセビリアをスペイン側に取り戻したのは1248年。南イタリアに到来したノルマン人がイスラム支配下のパレルモを陥落させたのが1060年のこと。「取り戻した」「陥落させた」などと書くとそうした一面だけに注意がいきがちですが、このような国際都市においてこそ当時最先端だった科学をアラビア語から翻訳して「十二世紀ルネッサンス」が花開いたのでした(他にはトレドやピサ、ヴェネチアなど(『カラー版 地中海都市周遊』(中公新書)などでそうした都市の空間的魅力が味わえる)。
そうしたグローバルなスケールでのイノベーション的葛藤を除けば、どちらかというと国内的な動向、もしくはせいぜい地域的な動向、あるいは地域間交流・交易が当時の都市を取り巻く環境だったと思われます。日本に限れば、907年に唐が滅んだあとはしばらく「外圧」が弱くなり、13世紀末の蒙古襲来もなんとか食い止めると、16世紀前半頃までは国内事情で都市や地域が変化していったと考えられます。
しかしながら「中世に固有な都市類型について、共通認識が得られていない」(『岩波講座 日本歴史(中世2)』(2014)「中世都市はなかった?」p255)状態で、あえていえば「市(いち)・宿・津・湊・寺など」の交易都市(町)に都市特有の景観がみられたとされています(同書p278)。
【in evolution】世界の都市と都市計画
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【In evolution】日本の都市と都市計画
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