800年の都市人口

「1200年」からさらにさかのぼって、まだ古代の帝国的な都市システムが力をもっていた頃の「800年」の都市人口をみてみます。
日本で平安京に都が移された頃、東アジアでは長安を中心とするゆるやかな都市文明が栄えていたのと同じように、コンスタンチノープル(キリスト教の中心地)やバグダード(イスラム教の中心地)を中心とするまとまりが形成されていた、、、その頃の古代世界都市システムの様子を都市人口から見てみるとどうなるか。

チャンドラーの推定都市人口で大きい順に並べてみます。
バグダード 700000
長安 600000
洛陽 300000
コンスタンティノポリス 250000
平安京 200000
コルドバ 160000
バスラ 100000
ラサ 100000
フスタート(カイロの前身) 100000
レイ(イランの古代都市) 100000
ここまでで10都市ですが、もう少しあげると、
アレクサンドリア 95000
蘇州 84000
武昌 84000

洛陽は当時の中国の副都的存在(⇒関連記事へ)ととらえると、上位3都市がそれぞれのサブ・グローバル圏の中心です。とはいえ、「コンスタンティノポリス 250000」というのは他の2つに比べるとかなり小さい。東ローマ帝国の中心都市として建設されたこの都市も7世紀に入るとイスラム勢力に押されて帝国の領土を縮小。上記「コルドバ」も711年には征服されたあとの状態です。さらにコンスタンティノポリスの人口は「746年のペストの流行の際には、人口は最低水準(7万人?)に落ち込んだ」(『ビザンツ文明』(文庫クセジュ)、2007、p71)。西ローマ帝国は既に476年に滅亡しており、都市という意味ではヨーロッパは個別分散的なものだった。たとえばロンドンは国内的には主要な交易都市であったものの1100年になっても18000人にすぎません。

【in evolution】世界の都市と都市計画
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