江戸城外堀と清水谷

西郷(せご)どんも昨日からいよいよ後半入り。その親友、大久保利通明治11年に暗殺された清水谷を酷暑の中、初めて通る機会があり、この付近の江戸城外堀も含めてその独特な空間に「江戸」都市計画の生きた姿や、明治初頭の東京の一断面を目撃できた思いを抱きました。
もう少し説明すると、これまで四谷から上智大学に向って外堀の内側を歩く機会はあったのですが、その細い道はその先にずっと続き、やがてホテルニューオオタニを介して清水谷に至ります。ご存じの方には「あっ、あそこネ」くらいの所であっても、そこに彦根藩などもからみ、体験した空間もいろいろな意味で他には無いものとなると、とても貴重な場所に思えてきます。
さっそく『江戸城外堀物語』(北原糸子著、ちくま新書209、1999.7.20刊)を開いてみるとp209に、近年の考古学的成果も踏まえた「図19 寛永13年外堀普請に伴う開発エリア」がありました。それによれば、この付近の外堀を掘って出た土砂を清水谷に埋めたと。埋めたといっても現在清水谷を歩くと谷にいる気分になり、ここを通っていた大久保利通の気持ちになれそうな気もするのですが。
しかし埋立以前の清水谷には多くの寺院があり、それらは四谷方面に移転させることで、江戸城は外側に向って拡張したのだと。

それはそれとして、現在の清水谷の土地利用には何か「ちぐはぐ」感があり、いまだ完成していない気がします。というより、東京の真ん中にあって、忘れられてしまったかのような空間。この付近の外堀もいい意味で忘れ去られてしまったような空間に思えます。
酷暑のこの時期に歩くのがちょうどよいと思えるような、ある意味なつかしい、ある意味これまで見たことのない風景に出会えます。
(また暑い話になってしまいました、、、)

【In evolution】日本の都市と都市計画
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