ローマの底力:都市文明と都市計画(2) ローマの遺伝子

本年5月に出版された『フィレンツェ 比類なき文化都市の歴史』(岩波新書1719、池上俊一著)には、フィレンツェの成り立ちから現在に至る都市の歴史が精緻かつ濃密に描かれています。都市計画の立場からみても、頁数こそ一部分ですが濃密に凝縮されて書かれている部分をしっかり理解しようとすると、フィレンツェの都市計画史になりそうな内容です。ここではそうした方向ではなく、フィレンツェという存在を材料に、「ローマの底力」を「ローマの遺伝子」という視点から考えます。
フィレンツェカエサルの時代(前100‐前44)に交通の要衝であるこの地が選定されローマの植民市として都市計画されました。その植民市時代の古代フィレンツェは驚くほどほぼそのままに現代まで引き継がれています。「ローマ時代に建設されたフィレンツェでは、再生するまでもなく、市街地のまさにど真ん中に、ローマ時代のままの区画が残っていた」(同書序のp4)。これを同書では「第一層」と呼び、続く中世のフィレンツェを「第二層」とします。この第一層、第二層のうえに連続してルネサンス期がくる。そして「フィレンツェの文化的遺伝子はルネサンス期の終焉とともに枯渇してしまうわけではない」と続きます。とはいえ本書をよく読むと、フィレンツェで花開いたルネサンスの最盛期は15世紀末までであり、図書としては現代までつなげて書かれているとはいえ、それ以降の時代のエネルギーのようなものは、別のところに移ったのではないかと感じた、というのが率直な印象です。
ではどこに行ったのか?

ここで「ルネサンス」の最も端的な理解を言葉にします。
「古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動」
フィレンツェで育ったミケランジェロ(1475-1564)は傑作ダビデ像が1504年に完成する前の1496年にはローマに軸足を移しています。1506年にローマでみつかったラオコーン像の発掘現場にミケランジェロも立ち会ったとされ、「古典古代の本物」(一応作者は推定されているがある意味無名の人)を見た若きミケランジェロの胸の内もいろいろ想像したくなります。文化の復興というのであれば、みじめにも打ち捨てられたローマという都市そのもの(概数ではフィレンツェの人口10万に対してローマの人口2万)をなんとかしなくてはならない。ミケランジェロがそう思ったかどうかは別として、まさにアーバン・ルネッサンスこそが究極のルネサンスと認識されてもおかしくありません。後にミケランジェロが手がけたカンピドリオ広場の再生(1538年頃に着手され、完成までにはかなり長い年月を要した)は、丘の上の広場の再生という次元を超えて、ローマの起源を象徴する丘そのものの再生やそれに伴うローマらしい風景の再生など、ローマという都市のルネッサンスのはじまりを告げる重要な都市計画だったのではないか、との印象を持ちました。毛織物業からスタートし銀行業で儲け(フィレンツェの黄金時代を築い)たメディチ家の財力(というよりむしろ蓄財能力?)は、この時代にローマ教皇となったレオ10世(1513-21)、クレメンス7世(1523-34)らによってローマの復興・再生への道筋をつけるのに大いに貢献したのでしょう。

古代「ローマの遺伝子」は植民市フィレンツェに植えられ成長し、それがまたローマにもどってきて本格的なルネサンスのエネルギー源となった。そもそも本家ローマはローマという都市そのものだったのだから。
以後、時代区分の上では「ルネサンス」と呼ばなくなったとしても、16世紀前半にはじまったローマの再生運動は新たなタイプの都市計画を生み出していくのでした。

【in evolution】世界の都市と都市計画
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