『古代ギリシャ 地中海への展開』

古代ギリシャ・ローマ”とはいったい何か。それはイタリアで起こったルネサンス期に意識化され理想として甦らせようとしたヨーロッパ的歴史観であり、本書が対象とするギリシャに限るならば、1821年にイギリス・フランス・ロシアの保護下に独立が認められた近代ギリシャを、「古代ギリシャ」を引き継ぐ場所として甦らせようとした独特な概念および実態である。その「実態」を明らかにすべく、本格的な調査は1837年にアテネ考古学協会が設立されたのを皮切りに欧米主要各国が研究所を設立。歴史は前に進むのでなく、次第に元に戻る形で研究がなされ、私たちが「歴史」だと思っていたことがどんどん書き換えられていく、、、
2006年に出版された本書(周藤芳幸著、京都大学学術出版会)もそのプロセスにあり、そこまでにわかってきた成果をまとめています。一言でいうと、「古代ギリシャ」文明は独立して存在したかのようにとらえるべきでなく、東地中海を取り巻くように生成・進化したメソポタミア文明エジプト文明からの大きな流れとは無縁ではなく、とりわけ筆者の近年行ってきたエジプトにおける考古学的成果を突き合わせて考えると、ヨーロッパがとらえ(ようとす)る“古代ギリシャ”とは異なる世界像がみえてくる。とりわけクレタ島でみつかった「線文字B」が1952年になってギリシャ語であることがわかるなど、断絶していると考えられていた古代ギリシャ文明がそれ以前の諸文明とつながっている(であろう)ことが次第にわかってきた。たとえば、ギリシャを特徴づける「ポリス」もその前の「ミケーネ世界のなかにはすでにポリス社会へと連続していく社会構造の特徴が少なからず芽生えていたと推測される」(p77)。など、など。

『十六世紀文化革命』以後、理想とする“古代ギリシャ・ローマ”を執拗に甦らせようとする力は都市計画の中に数多く見いだされます。それは、本当の「古代ギリシャ・ローマ」はまだ発掘も初歩段階であるなかで、当時の都市の状況に対処しようとした国王や官僚、建築家やプランナーたちが拠り所にしようとしたありがたい「モデル」だったのでしょう。それは当時の社会構造や文化意識を反映しており、刻々とそれさえも変化していくなかで、時には強く、時には弱く、最初は点として、次第に線から面へ、その時々の都市の状況や思潮などを踏まえて次第に体系化されていきます。