『明治二十二年陸地測量部発行・京都中部実測図』(京都と都市イノベーション(その6))

今週火曜日(2018年10月23日)は、「明治」に改元されてから150年にあたる日。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」もいよいよ明治に入り、江戸幕府を倒したのはよいのだけれど新しい体制づくりができておらず(というよりも旧体制から土地や人民をとりあげる版籍奉還の段階。最近出た『江戸東京の明治維新岩波新書2018.8.22刊もその「籍」を確定することがいかに困難だったかを描いていておもしろい)、各地で反乱が起きそうな不穏な空気が、、、

本図(縮尺2万分の1。参照しているのは「知郷書販」から出されたもの)は、明治22年発行とはいえ明治になった頃の京都の様子が一目でわかり、日本の市街地がまだコンパクトにまとまりピュアだった頃の様子が確認できる貴重な資料です。現東海道線はまだ伏見稲荷経由でぐるっと南に迂回しています。1890年に加茂川(鴨川)まで達したとされる琵琶湖疏水(⇒その1その5)はまだ図上には見当たらないなど、本図の「発行」と実際の内容がズレでいるかもしれませんが、むしろそれは「まだ近代化の初めだけしか出ていないのでより明治維新の頃により近い内容」と考えることにします。たとえば現東海道線は当時市街地の南端だった七条通(⇒その3)の南に摺り寄せるように敷かれています。
禁門の変(1864)で焼失したとされる室町通りから北野天満宮にかけて(一条通より北)はほぼ市街地的になっていますが、二条城あたりから南はそのあたりのラインが京都の西端です。東端に目を転じると、三条通(⇒その4)が大津方面から京都に入ってくる様子がよくわかります。市街地の北端も御所北にある相国寺あたりまでで、以上のようなコンパクトな京都に近代都市計画が構想されていったことがよく理解できます。
少し広域にみると南方には「伏見」や「桃山」がこれまたピュアな形でとらえられ、巨椋湖(巨椋池)は京都市街地の半分ほどもあり、「淀」のかつての姿がありありとわかります。

【In evolution】日本の都市と都市計画
本記事をリストに追加しました。
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757