2つ前の「アメリカは一日にして成らず」に関連して。
今週火曜日に1コマ担当した、とある研修の場にサントドミンゴ(ドミニカ共和国)からの研修生が含まれていました。まだ行ったことのないカリブのこの都市に興味をもち、あとで調べてみると、この都市こそが、1492年にコロンブスがアメリカを「発見」したあと各地に勢力を拡大していくための拠点都市だったことを「発見」。
一方、アメリカ独立後の西部への開拓で、「指標として大陸横断鉄道がつながった1869年を区切りにしておきます」としたそのエネルギーが、さらに太平洋を越えてグルッとアジアまで達するストーリーは、そこでは考えていませんでした。
1869年といえば明治維新の翌年。なぜ明治維新かといえば、「黒船」がアメリカからやってきて日本に開国を迫り、幕府が倒れて新しい「近代」が訪れたのだと。グローバルに見直すと、ヨーロッパから大西洋を渡ってアメリカを1492年に「発見」したあと、(少し飛んで)アメリカが西へ西へと開拓を進めて太平洋に至り、そのエネルギーで太平洋を渡って日本に開国を迫る(実際にペリーが来たのは逆回りだったが)。その時までに東へ東へと勢力を拡大してきたイギリス等の列強国が日本に到達しようとしていたまさにその時、日米修好通商条約が突破口を開いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様な条約を1858年に締結。特に、開港された横浜がその後のエネルギーを受け止める場(都市)になります。そういう意味では、「世界が一つにつながった」のは1492年ではなく1858年だったといえなくもありません。
本当に「世界が一つにつながった」といえるためにはもう一つ。安定的な太平洋航路が確立されなければなりません。ペリーはそうした大陸間関係を築くべく、執念をもって十分な準備のもとに日本にやってきたのですが(『ペリー提督 海洋人の肖像』講談社現代新書1822、2005)、実際に定期航路が拓けたのは1867年のコロラド号から。サンフランシスコと香港を結ぶこの船がはじめて横浜に寄港したのが1867年1月24日。
ヨーロッパからみれば東回りでも西回りでも日本ははるかかなたの地で、日本の開港地横浜が、東回りと西回りのエネルギーを同時に受け止める都市となった。そしてこのことをもって真に地球をグルグル回るという意味で「世界が一体化した」のである。とのストーリーは、かなり大げさながらワクワクするストーリーではあります。
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[参考]サンフランシスコの人口
1848 1000人
1849 25000人
1852 34776人
1860 56802人
1870 149473人
1880 233959人
1890 298997人
1900 342782人
1910 416912人
1920 506676人
1930 634394人