『横浜開港場と内湾社会』

先週木曜の博士課程ゼミで、横浜山手を研究しているSさんが、「この本、S先生から紹介されました。出たばかりですヨ」と。

見ると「横浜開港場」とあり、すぐに注文。A社の流通網ですぐに届いたので読んでみるとなかなかおもしろい本です。T大学建築のI研究室でまとめた博士論文がもととなっているということで、I研究室の蓄積やスタイルを踏襲した実証的な研究です。

中尾俊介著、山川出版社2019.11.10発行。

 

横浜の開港史、開港都市計画史、近代都市計画史を知りたいといつも思っている立場から、特におもしろかった点をあげます。全部おもしろかったといえばそうですが、厳選して主観的に。

第一。いわゆる「第2回地所規則(1864)」第7条で要求されていた(というよりそういう約束をさせられてしまったのでそう書いてある)日本人街の海岸に面した地区(本町通りより海側)の外国人への明け渡しを結ばされた背景と、「第3回地所規則(1866)」の第2条でその不利な条項を廃止してかわりに幅60フィートの道路(本書では「環状道路」としている)を設けることで不利な条項の削除を納得させたこと。端的にいえば、それまで日本人町だったところをとられないように(活用されておらずせっかくの港の機能が発揮できていないので我々に渡せと迫られていた)、それまでの日本人町そのものには手をつけずその外周にぐるっと周回する広い道路(インフラ)を整備することでその後の土地利用展開を可能にするという説得材料にしようとした。その折衝経緯や、その新条項の効果がいかほどのものだったかも含め、第7章「海岸の民有地化と成熟」で詳述されています。

第二。この第一の効果についての著者の解釈(というか「開港場」の近代化についての解釈)。近世的な日本の貿易商(3)や運送集団(4)が、こうしたインフラの整備や国際貿易向けの土地利用展開の中で変容し、やがて開かれた近代港へと脱皮していくプロセスがていねいに描かれます。

第三。これはむしろ『横浜開港場と内湾社会』では描かれていない部分で、『港町 横浜の都市形成史』(横浜市1981)の解釈。「日本にとって不利な条項を改正する条件として、山手を居留地として開放することを提案していた。当初、改正談判は遅々として進まなかったが、大火による日本人居留地の被害をみて、外国側は海岸地区に進出したいという要求を取り下げ、一気に「第3回地所規則」締結の運びとなった」(p24)の部分です。「日本人居留地の被害をみて、外国側は海岸地区に進出したいという要求を取り下げ」の部分は、『横浜開港場と内湾社会』でも解釈がいくらかされていますが、どちらかというと外周道路によりインフラを整備して土地利用展開したほうが有利と考えた点を強めに出しています。また、「日本にとって不利な条項を改正する条件として、山手を居留地として開放することを提案していた」については触れられていない。というより港湾機能そのものをテーマとする本書ではテーマ外だったのでしょう。

第四。結局、まだ仮説として残された部分も多いのですが、近世的な横浜が近代的な横浜へと脱皮していくさまが、これまでとは比較にならないくらいていねいに、江戸との関係も含めて構造的に、さらには諸外国の思惑との関係を第2回、第3回地所規則ともからめながらより深く描かれているところがたいへんおもしろいと感じました。