アイ・ハヌム : もう1つのアレクサンドリア

アレクサンダー大王の東征(紀元前334-323)でギリシャ文化が東方世界にもたらされた際、各地に軍事拠点としての都市「アレクサンドリア」が多数つくられた。けれども今となってはどこにそれらがあったのかわからなくなってしまった。エジプトのアレクサンドリアを除いては。
との残念な状態のなかから、アフガニスタンで発掘された「アイ・ハヌム」が当時のバクトリア王国の拠点都市アレクサンドリアだったのではないか、とのストーリーが展開される少し前の番組(NHKスペシャル「文明の道」第2集・2003年)に刺激されて、古代ギリシャからローマに至る間の、西と東をつなぐこの都市の意味を、やや要約風に書き留めてみます。ちょうど2018.12.11の記事(⇒関連記事1)にあるように、世界の都市空間史にアジア都市をどの段階で登場させるか考えているところなので、「アイ・ハヌム」の意味を考えることは、「西か東か」ではなく、「西と東を結ぶ都市」の意義を考えることになりそうです。

第一。現実的な話から。1960年代に発掘がはじまり多くの発掘品や記録が残されたあと1979年にソ連アフガニスタンに侵攻。戦争状態となり、カブールの博物館に保管されていた品々は持ち去られてしまった、、、と思いきや情報文化省の手で密かに持ち出され倉庫に隠してあった。けれども発掘現場はちょうど戦闘向きな地形だったなどの理由で荒れ果て盗掘されて、わずかな遺産の断片を別にすれば残骸だけが残ることに。そこで1979年以前に得られていたデータ等をもとに「アイ・ハヌム」がどのような都市だったかをコンピュータ復元していく。
第二。この都市の文化的・歴史的意味。アレクサンダー大王は東征の過程で軍事拠点を設けギリシャ人により都市が築かれた。アイ・ハヌムは東西1.5キロ、南北2キロ。高さ12メートルの城壁で囲われ、丘から平地に降りる斜面を利用した円形劇場や、川辺のギムナジウム(学校)などがあった。これらだけをみればまるでギリシャ都市風である。
第三。しかし、都市の中心部には王宮があり、そこに入ると120本の列柱で囲まれた大きな広間があった。王宮は一見ギリシャ風であるが、よくみるとペルシャなどアジア的な部分ももっていた。さらに、神殿跡から発掘された左足の一部などから推定すると、その像はギリシャの神ゼウスを祀るだけでなく、インド・イランで信仰されていた太陽神ミトラの顔も持ち合わせていた。つまり、ギリシャの古代文化は現地の文化と融合・共生することで多民族が交流する拠点都市となりえたのである。
第四。しかしアイ・ハヌムの繁栄は150年ほどにおわる。

この「文明の道」は5集から成り、アレクサンダー大王の東征からはじまりローマ時代を経てヨーロッパとアジアの文明が強く結ばれていく進化の過程を近年の考古学的成果をもとにリアルに描き出しています。とりわけアイ・ハヌムもそうであったように、「東」と「西」の間に点々とつながる諸都市が、盛衰しつつも常にネットワークのハブとして機能したことが連続した歴史として「見える」ようになることで、現代においてもユーラシア大陸の「東」と「西」がシームレスにつながっているとの視点を与えられたような気がします。

[関連記事]
1.紀元前600年の世界の都市人口
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20181211/1544501391
2.Sunken cities (アレクサンドリア開墾)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20160523/1463991285
3.『イブン・バットゥータと境域への旅』
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170420/1492661171
4.『ユーラシア胎動 −ロシア・中国・中央アジア
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20141218/1418896899
5.ウランバートル
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20120717/1342514398