再建された旧吉田茂邸 (大磯町)

「晴れた日には南に相模湾、西に富士山を臨む。そんな絶景の場所に旧吉田茂邸は立っています。」(旧吉田茂邸学芸員 久保庭萌「(随想)旧吉田茂邸の再建と公開」p44)

 

いつか行こうと思ってなかなか行けなかった旧吉田茂邸に、やっと先日行ってきました。2009年の火災で焼失後2017年に公開されるまで8年。1個人の邸宅の再建に民間からの寄付がこれだけ集まった理由は、そこに行ってみると自然に感じとることができます。「寄付」という行為の中にはそもそも、なんとかしてこの貴重な文化遺産を取り戻したい、自分もその一員となってそうしたい、という思いが込められていて、再建されたこの邸園を訪ねることは、既に自分の中にある再建後のイメージを持ちながら、できあがったものを恐る恐る確認する作業のように思います。

 

なかでも強い印象をもったのは、吉田茂が公の職から引退後に増築された新館の2階です。冒頭の「晴れた日には南に相模湾、西に富士山を臨む。そんな絶景の場所に旧吉田茂邸は立っています」という表現が、この邸宅を外側から客観的に説明するものだとすると、引退後に吉田が多くの時間を過ごしたと思われる新館2階の、中でも「金の間」(再建の際、金は使われていない)の雰囲気は、これまで見たことのない類のものです。なぜこのような雰囲気を再現することができたのか。冒頭の随筆から2点、特定します。

 

第一。茂の養父吉田健三は明治17年にここに土地を購入しますが、「大磯に土地を購入した時期はちょうど大磯が別荘地として発展を遂げようとしていた」時期にあたり「健三は大磯のなかでも特に眺望のよい土地を選び別荘を建てました。吉田邸はちょうど大磯丘陵の端に位置する小高い丘の上で、駅からも少し離れた閑静な場所にあります」(随想p44。なお、大磯駅の開業は明治20年)。そうです。「金の間」から見える小田原・富士箱根方面の眺めは、「ここ」にしかない絶品です。よく見てみると、本館からの眺めはそうでもないのですが、茂が政界からの引退時に建てた別館はスロープになっている廊下を少し北側に上がった地点にあり、かつ、「ちょうど大磯丘陵の端に位置する小高い丘の上」の西側の、「そこ」にしかとれない窓越しに見える眺めです。その丘は高すぎてはダメで、「金の間」からは中・遠景が雄大に眼前にひろがります。

第二。その「金の間」の窓などの設計。「完成した建物は、迎賓館にふさわしい豪奢で洗練された造りでした。二階の応接間として造られた「金の間」は眺望もよく、高い天井と大判ガラスを使用した窓が解放感を生み出しています」(随想p47)。現在、この部屋の調度品は除かれ、小さなイスが3つ並べてあるだけですが、可能であればここで賓客と語り合ったときのソファー(?)などを再現して、さまざまな季節・時間帯の眺めを味わいながら茂が過ごした「本当の歴史」に迫ってみたいものです。

 

なお、これまで、「昭和期の首相吉田茂が別荘をつくろうとした際、大磯駅寄りの一等地は伊藤博文などの明治の元勲たちの別荘で押さえられていて、駅から離れた端っこのほうに土地を求めた」のではないかと思っていましたが、明治の元勲たちが別荘を建てるのは明治30年前後になってからなので、最初に大磯に土地を求めた実業家の養父健三が最も優れた土地に目をつけたというのが歴史の順番だったようです。

 

 

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