天平の疫病(735-37)を軸に『東大寺のなりたち』を読む (都市は進化する110)

九州北部で735年に発生し737年まで猛威を振るった疫病(天然痘)により、当時の人口の25~35%を失ったとされます(流行前の人口を450万人とするとおよそ100~150万人)。これだけでも国の運営が絶望的な状態に陥ったものと想像されますが、日照りによる飢饉、大地震なども重なり、さらには政争も加わったとされます。恭仁宮や紫香楽宮への遷都もそのようなドン底から逃れようと、あるいは少し前向きに考えれば挽回しようとしたのでしょう。特に恭仁宮跡がある「みかの原」を現在訪れると、疫病を逃れて美しくのどかな風景の中でやり直そうと思う天皇の気持ちを想像したくなります。

けれども「その責任はすべて自分一人にあり」(p56)と聖武天皇は大仏建立の大事業により国家を鎮護しようと平城京に戻って指揮をとる。

『東大寺のなりたち』(岩波新書1726、2018.6.20刊)は、まだ「東大寺」と呼ばれていなかった時代から説き起こして、こうした苦難の時代を乗り越えようとする時代に東大寺が果たした役割について、東大寺別当(第218世)も務めた森本公誠氏が著した図書です。鎮護国家のために全国に国分寺を建てたことはよく知られていますが、そこで役割を担う僧の養成機関として東大寺がどのように、どれくらい重要だったかの記述には森本氏ならではの迫力が感じられます。たとえば「聖武天皇が国分寺建立の詔を出したとき、各国分寺には二十人の僧を置くこととした」「全国には六十余りの国分寺ができるから、全体で約1200人以上の僧侶が必要となる」(p85)。教育のためには資金や食料を生み出す土地が必要なため、(保有してよい)墾田の上限が4000町とされた。興福寺が1000町、法隆寺が500町などだったことと比べて、その位置付けの高さが示されます。

結局こうした仏教界の強さが敬遠されて平安京へと逃れるように遷都されてしまいますが、後日談も含め、だいたい850年くらいまでの東大寺が語られています。

「平城京」といういわゆる都市・都市計画の話ではありませんが、それと同等に、あるいはそれ以上に、当時の都市・国土(国家)の形成エネルギーがいかなるものだったかを知る手がかりとなる図書として、楽しく読ませていだきました。そして驚くべきことに、東大寺の大仏は今でも現役であり、鎮護国家・天下泰平・五穀豊穣などへの願いが込められた二月堂の「お水取り」(修二会(しゅにえ)と呼ばれるこの行事は大仏開眼の752年に始まったとされる)もまた毎年行われる行事となっています。

 

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【In evolution】日本の都市と都市計画
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