唐古[遺跡]から纏向[遺跡]へ (前1C~後3Cへの補助線)

弥生時代の遺跡としては最大の唐古遺跡(唐子・鍵遺跡)をはじめて訪れました。纏向遺跡から数キロしか離れていないこの遺跡の意味を知ることは、日本最初の都市誕生の1つの手がかりになるのではないかと。紀元前1世紀に最盛期を迎えた唐古遺跡(唐古・鍵遺跡)と3世紀はじめの纏向遺跡の間には200年余の「差」があるのですが。

唐古・鍵考古学ミュージアムに立ち寄ったF先生にたまたまお話をうかがう幸運に恵まれ(←たまたまその時間にいたのは私の方です)、理解した内容をもとに私の責任でいくつか書き留めます。

 

第一。残念ながら今のところ唐古遺跡から纏向遺跡への直接的つながりはとても弱い。時代に隔たりもかなりあるし。

第二。しかし、唐古遺跡も以下のようにかなりの文明的段階に達していた。まず、弥生時代の遺跡としては最大規模になった。中心となる環濠集落の周辺には数々の集落があり、それらの中心的役割を果たしていた。さらに広域的なネットワークをもち、近畿地方の範囲をはるかに越えた交流もあった。

第三。そうすると、ある意味、唐古は、ネットワークの頂点に近い役割を担っていたと想像することもできなくはない。「都市」とまではいえないとしても、単なる「弥生時代の大規模集落」ではすまされない文明段階を感じさせる。

第四。しかし唐古と纏向の間に200年余の「日本の歴史(の進化)」があり、どのように纏向を打ち立てたかには諸説あって、唐古から纏向への連続性のあるストーリーは組みがたい。

第五。とはいえ幾筋かの仮説的「補助線」は引けなくもないので、現時点であえてうっすらと引いてみます。その1。地域的サポート。唐古を成り立たせていた地域の有力者らの協力。その2。最盛期ではなかったとはいえまだ技術的にも文化的蓄積の面でも力があったと考えられる直接的貢献。その3。その総合力の高さゆえにこの地に次の段階の文明(都市)が誕生した。(もとはといえば弥生時代の高度な文明段階に達し得たというこの地域の力の存在。)

 

最後に、F先生の著書の紹介文から引用させていただきます。

「弥生時代700年の長期にわたって、唐古・鍵の人たちが営々と築き上げてきた高度な文化が、次の時代へと継承されていったからこそ、この地域に王権が誕生することになったと私は考える。」

 

日本最初の都市の誕生は、纏向側からだけでなく、唐古側からも研究されることで、200年余の溝が過ごしずつ埋まっていくことを想像しました。



【in evolution】日本の都市と都市計画(a-1 古代都市の生成過程)に本記事をリストに追加しました。
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757