『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』

9月。久しぶりの涼しい朝です。

世界遺産「アヤソフィア」(イスタンブール)がモスクに戻されたことに世界でさまざまな批判や心配や関心が高まる中、8月30日の朝日新聞文化・文芸欄に、「試されるユネスコの危機管理」という論説が掲載されました。

コンスタンティノープル。世界の都市の歴史の中でも、最も興味深い都市の1つです。

 

330年にコンスタンティヌス帝がこのコンスタンティノープルにローマ帝国の首都を「遷都した」との理解は間違っていること(山川出版の世界史(2018発行)には「ビザンティウムにあらたな首都を建設して、コンスタンティノープルと改称し」となっていて、この教科書では「遷都」とまでは言っていない)、「西ローマ帝国は476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルに滅ぼされた」というのも誤った認識であることなどを、「なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか」との視点から描き出した概説書です。

NHKBooks1265、2020.8.25刊。著者の田中創氏は古代ローマ史が専門の1979年生まれ。都市自治にも深い関心を寄せる41歳。これからの研究成果が楽しみです。

 

実は今、『(文庫版)ローマ人の物語』(塩野七生)がようやく24巻まできました(全43巻)。ローマ帝国絶好調の頃です。絶好調ではあるのですが、ライン川とドナウ川に防衛ラインがあり、そのすぐ内側には防衛拠点としてのローマ都市がかなりの自治権を与えられて育ってきています。ウィーンやブダペスト、ベオグラードなどです。

『ローマ史再考』では、こうした、次第に自立しつつあった都市が自己主張をしはじめた3世紀から4世紀の、「皇帝」が勝手に各地(各都市)にたくさん生まれるような時代をなめるように(おそらく学術的に記述すると固くなり読み物とならないので一般読者用にわかりやすく書いている)叙述。その1つであったコンスタンティノープルは決して最初から首都になろうなどとは考えてなかったし、第一、最初から都市機能がしっかり揃っていたわけではないということを、20世紀末以降の古代ローマ史の世界の研究成果を踏まえて書いています。476年の件も、その1点で「ローマが滅亡した」というよりも、皇帝が次々に各地にあらわれるような時代は既に皇帝のいる都市が(ある意味すべて)ローマであって、むしろ本当の皇帝は次第にローマに滞在しなくなっていたという話。

都市ローマのその後の変遷も、よちよち歩きだったコンスタンティノープルのその後の成長と数奇な運命も、興味が尽きません。

コンスタンティノープルの「数奇な運命」の1つがこのたびのモスク化。その「モスク化」という言葉でさえ、幾重にも積み重ねられた歴史の重みを内蔵します。

 

「歴史」が次々に書き換えられています。歴史学によっても、考古学的発見によっても、文学的解釈と創作によっても。このことによって、都市も地域も世界も常に新しくなっていきます。リアルに変わっていく(と思っている)その見た目の姿とともに。

 

 

 

本記事を「世界の都市と都市計画」(古代都市と都市文明の形成) に入れました。

https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20170309/1489041168