『市区改正と品海築港計画』(都市は進化する113)

ペリーが黒船で日本に開国を迫り、1859年に横浜が開港して横浜港となったのに、その後日本の首都として発展した東京がなぜ、しばらくの間、港を持てなかったのか。

本書は東京都が発行する「都市紀要」の25番目の書として書かれた研究書で、東京都公文書館が編集しています(1976年発行)。

 

よく、東京が港を持つことに横浜からの強い反対があったから、という理由があげられますが、「甚だ残念なことには、それを示す文書が、東京にはない」(p148)。「横濱側も資料としてはとぼしいらしく、横濱市史にも、それより前の横濱市史稿にも、横濱築港誌にも、その事実がはっきりとのべられていない」(p149)。

ということから、明治の末に横濱が第一種港湾となり「もはや横濱の貿易港としての地位は不動のものとなってしまった」(同)ところまでの顛末を、東京都側の公文書を駆使して整理しています。都市計画史の教科書にもその一部が図面入りで紹介されたりもしていますが、これだけ丹念に紹介されてはいません。

読んでみると、品海(ひんかい)と呼ばれていた東京の沿岸部に「港」をつくることそのものが容易ではなかった。遠浅の海に大型船がつけられるにはかなり堀り込まなければならず、岸壁も最初からつくる必要があり、いくつも出た案は(横浜港と比べても)膨大な費用を必要とした。そして、ようやく政治決着を見たあとも、主導者が亡くなり、あるいは失い、ついには大正に入って関東大震災が起こり、東京そのものがやられてしまう。

既にこの時代は本書の対象外となるのですが、「おわりに」において、震災後、「アメリカの救援物資を積んだ船が芝浦にきて、荷をおろそうとしても、桟橋まで船足が浅くてどうにも近づけない」「このことは一般に東京築港の必要性を痛感させた」(p149)。そして、「戦争中という条件のもとに、昭和16年5月20日遂に待望の東京港開港という、明治以来くすぶっていた東京築港の夢が実現するに至ったのである」(同)、とされます。

横浜港開港の1859年から82年後のことです。現在2022なので、東京港開港1941年からようやく81年。

 

しかしさらに驚くことに、横浜港にある山下公園のような、いかにも港らしい市民の憩いの場は東京には無く、ある意味、「港湾(物流)機能」としての港はあまり「東京に港がある」という風には感じられません。横浜港がいかに魅力的であるかを改めて感じると共に、東京は東京のやり方で「私たちの港」というものをこれからもっと意識して創造していく重要性を感じます。


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