『「幕府」とは何か 武家政権の正当性』

東島誠著、NHK BOOKS1277、2023.1.25刊。

2つ前の記事で、「【in evolution】日本の都市と都市計画」第1パート「古代都市の成立とイノベーション」を3つの節に分けた際、次の第2パートにあたる「中世都市はどうなっていたか」の構造(構成のしかた)を考えるには「まだ部品が足りない」と、ペンディングにしました。と同時に、仮説的要素を「平城京から城下町まで」の中で列挙したことに言及しました。その仮説的要素は6つあり、以下のようなものです。

「1)鎌倉のような「武家の都」ではなく、「武家も重要だけれども藩主が統治する自律的なまとまり」へ進化するには数段階のプロセスを要した。2)国司や守護の形で中央から派遣され「上」から統治する形から、土地を媒介として「下から(地域から)」統治する形になるまでにやはり数段階のプロセスを要した。3)古代とは異なる形で国土が一元的に統一されるためには1)2)の長いプロセスを要した。4)1)を支える器としての「城下町」という都市形態・システムが普及・定着することが日本にとっての独自の都市の姿になったがそのプロセスが成熟し定着するまでには長い時間が必要だった。5)同様に「城下町」という都市システムが十分機能するだけの地域経済が回るためにはかなりの時間を要した。6)3)でいう「一元的な統一」のためにはそれを持続的に成り立たせるいくつものデバイス(藩の配置/取りつぶし・刷新などの更新システム/地方が反乱しないためのさまざまな工夫等/海外からの雑音を取り除くためのさまざまな工夫)が必要で、それらが確立できてようやく安定した都市/地域/国土システムとなった。」

 

本書『「幕府」とは何か』のテーマは「武家政権の正当性」を論じることにあるのですが(←「正統性」でなく「正当性」を論じるところがミソとされる)、それは同時に上記仮説群のいくつかにかかわるもので、1)2)3)にかかわるほか、5)についてもいわゆる応仁の乱前後の社会経済システムの変化が書かれています。4)については直接は書かれていませんが、信長、秀吉の地域活性化政策や公共工事政策等の業績の解釈で論争的なことが書かれていて、かなり興味が湧くところです。。

ここでは6)の「藩の配置」にかかわる話で1つだけ注目される記載があったので、それについて書き留めます(p262-265)。

それは、武田氏が滅亡して駿河国が徳川家康に与えられた翌年の1583年、「河東」といわれていた領地をそれまで一括して管理運営していた方法を改め、三人の城主のもとに管理運営することにしたとの議論です。証拠文書として、長久保城(現静岡県長泉町)主牧野康成、三枚橋城(沼津城)主松平泰次、興国寺城主松平清宗がそれぞれ別々に許認可を出した文書の事例が示されています。まだ「藩」とは言っていませんが、動乱の戦国時代から安定した幕藩体制に移る第一段階のような位置づけとして注目されます。上記仮説群の4)5)そのものではないですが、地域に根差したシステムとしての近世的ユニットが出てくるきっかけを示すものとして重要な情報かもしれません。

 

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【In evolution】日本の都市と都市計画
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