古代都市地域構造の変遷(3C~6C)素描~纏向から明日香まで (都市は進化する150)

日本ではじめての都市あるいは都市的様相をもった集住の場を纏向(まきむく)とすること、明日香(飛鳥)が都市といえるかどうかは別として「都」の位置として7世紀のしばらくの間安定した時期があったこと、この2つについてはどうやらかなり確からしいとした場合、「では、その2点間の時代、地域はどうなっていたか?」について、歴史学でも考古学でもなく、都市計画・地域計画の立場から仮説的ストーリー(の骨格)を書いてみます。
その手がかりとなるのは2021.9.20に出版された『倭国 古代国家への道』で、「王宮の場所」を空間的に特定して時代に沿って読み解くというものです。それまでの古墳を頼りに読み解こうとする方法だと「都(宮)」そのものの話とはならず間接的なストーリーになってしまう限界を突破しようとするはじめての成果なのではと思います。
けれども「都(宮)」だけに着目すると逆に、「なぜ日本最大の仁徳天皇陵はあんなところにデンと構えているのか?」とか、「なぜ古市古墳群は難波の港方面でもなく奈良の樫原や明日香とも関係なさそうなあんなところにあるのか?」「いったい、纏向と明日香の間にぽっかり空いている350年間はどうなっていたの?」という疑問に答えられない。
そこで本日は、「都(宮)」と「古墳」を同時に整理しつつ、この時代を読み解くいくつかの補助線を用いて、3世紀から6世紀末に至る「古代都市地域構造の変遷」を素描してみます。(細かな作成過程等は省略(大まかには、宮は『倭国  古代国家への道』を参照しつつ補足、陵はgoogle map上で1つずつ確認)。1つ1つの真偽の吟味は不可能なため、あくまで参考資料かつ完成品ではない)

この年表の要点だけ読み取ると、

第一。存在したかどうか疑われている9代までの天皇を除くと(一応、現時点で比定されている陵の位置と、「ストーリーとしてはこのあたりのことに相当しそう」とされる年号は参考ため書いてみた)、纏向遺跡の周囲に10代、12代天皇の陵が比定されていることにリアリティを感じる。山の辺の道を歩いて感じる陵墓の森の圧倒的存在感が、本当の歴史だったことや、纏向という日本最初の都市とこれらが結び付いていた(と想定される)ことは感動的な体験になりうる。

第二。しかし4世紀も後半になるとこの流れが一旦途絶え、14代はともかく(「???」とあるように実在したかどうか不明)15代天皇より奈良を離れて羽曳野・藤井寺(古市古墳群)や百舌鳥(百舌鳥古墳群)に陵が移る。(ただし、陵は5世紀末頃までなのに対し、「宮」は17代の宮が既に磐余(いわれ)[現在の桜井市]であるほか石上[天理市]や朝倉[桜井市]となる。「陵(古墳)」と「宮(居所)」をセットでみることで、何かわかってくるような気がする。)

第三。ここでストーリーは海外に急展開する。『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』(中公新書2470、河内春人著、2018.1.20刊)などを頼りに、とりあえず上の年表の欄外に「讃珍済興武」の五王を対応させてみた。東アジア情勢が急変し、奈良の奥に引っ込んでいることはできず難波津を拠点にアジアに繰り出した。『倭の五王』では、369年に石上(いそのかみ)神社に伝わる七支刀が百済よりもたらされた話からはじまる。今、私たちが「山の辺の道」を歩くとき、メインコースのスタート地点がこの石上神社になっており、20代、24代天皇の「宮」も石上だったことを考えると、奈良盆地と難波との強い結びつきが想像される。14代はともかく15代の頃より陵は百舌鳥[堺市]や古市[藤井寺/羽曳野]あたりにつくられ「宮」も難波や河内松原などにある。16代仁徳天皇についても奈良との結びつきを強調する書もあり、大阪は大阪、奈良は奈良と分けて考えるよりも、少なくとも(都市)地域構造としては、難波津から奈良盆地に至る連続的な政治・社会・地域経営の様子が感じられる。この感じを最もよく表す図面が『難波宮 東アジアに開かれた古代王宮』(新泉社、2014.8.15刊)のp19で、「なぜ日本最大の仁徳天皇陵はあんなところにデンと構えているのか?」「なぜ古市古墳群は難波の港方面でもなく奈良の樫原や明日香とも関係なさそうなあんなところにあるのか?」といった疑問に答える手がかりとなる。本当はこの図面と、当時の奈良盆地の図面を同時にあらわし「3Cから6Cの日本の中枢」などとすると、本当によくわかるようになると思われる。

第四。倭の五王も最後のあたりになると「宮」のほうが奈良帰りしはじめる(まだ陵は大阪方面)とともに、宮の場所が纏向や石上ではなく、少し南下した磯城島(しきしま)や朝倉、磐余(いわれ)[桜井市]などとなる。このあたりから6世紀に入る。石上神社が「山の辺の道」のスタート地点だったとすると、さまざまに展開した古代300年ほどを体験してゴールとなるのがこのあたりで、海柘榴市(つばいち)があった。難波津から大和川を船で遡上した船着き場があり、538年の仏教伝来地となる。29代欽明天皇の宮はこのあたりにあり、陵もはじめて明日香に造営される。

第五。宮はその後もこのあたりにつくられ、33代推古天皇の小墾田宮は明日香地域への入り口にあたる雷丘付近と考えられている。陵は「太子町」と比定されている。(年表で「太子町」「香芝町」は薄いグレーにしてある。大阪方面は濃いグレーにし、大阪と奈良の中間にある町を薄グレーとした。)

第六。このあとが明日香時代となるが、ちょうど第五の推古天皇の宮のある小墾田が明日香への入り口部分となる。想像すると、第四に出てくる中心地だった磯城島や朝倉、磐余などがすぐに衰退したわけではなく、大和川の水運や海柘榴市も受け継がれ、本格的な明日香の都の建設の際もインフラとして機能したのではないか。

 

 

【In evolution】日本の都市と都市計画
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