平安京の都市計画はどの程度まで「完成」していたか?

「右京は早くから寂れてしまったんだって。平安京の都市計画図面は立派だったかもしれないけど、やっぱり都市計画はいつでも、、、」などというよくある評価に対して、2022.12.28に取り上げた『京都の中世史』第7巻では、「これまでアバウトにしかわからなかった右京の状態についても、具体的な邸宅の発掘成果等が積み重ねられ、精緻な図面が示され、理解がグッと進む」と解説しました。

そのあと、纏向からはじめて2世紀末頃からあとの「都」がたどったあとが連続的にとらえられるようになってきたこともあり、では、平安京はどこまで都市計画に沿って形成されたのかについても客観的に理解したいと思うようになりました。そこで本日は、せっかく『京都の中世史』第7巻で示された「精緻な図面」をもとに、このことを数値化してみます。

「前期平安京」(p12)、「中期平安京」(p13)、「後期平安京」p29がその対象です。いずれも『京都の中世史』第7巻の著者である山田邦和先生の作成したもので、平安京の都市計画から大内裏を除いた右京568町、左京568町の、計1136町を1つずつ数えます。

数えるのは当初都市計画された1136町のみであり、左京側や北側にその後追加されていく市街地はここでは扱いません。そうすることによって、1136町が前期⇒中期⇒後期でどう変わったかを客観的に比較します。また、図面に凡例が示されていないため、そこで示された記号や形状等により、以下のような「市街化段階」を設定しました。(前期=8世紀末~9世紀末、中期=9世紀後葉~11世紀末、後期=11世紀末~13世紀初頭)


市街化度4 ブロックが明確に描かれ内部が塗られている
市街化度3 ブロックが明確に描かれ内部は空白
市街化度2 ブロックが点線で描かれ内部も空白
市街化度1 ブロック内部が耕作地の表現(宅地ではない)
市街化度0 そもそも何も描かれておらず計画があっただけと思われる箇所

下表がその集計表です。(表現は「4利用あり」「3利用なし」「2街区曖昧」「1農地化」「0計画外」)

このような集計を意図した図ではない、あるいはこのような解釈は間違っている可能性もあるため、あくまでここではこう定義する、との前提で話を進めます。

 

第一。1136町の「平均市街化スコア」を出します。4,3,2,1の重みをつけて平均を出したものです。「前期」3.37、「中期」3.40、「後期」3.02。平安京は遷都の前年793年からはじまり805年に建設中止が決断されたとされます。このことについて『京都の中世史』第7巻では、「造作を停止しても大きな支障はなかった段階にきていたと解すべきであろう。ただその一方では、平安京に当初計画通りに完成されない部分がまだ残っていたことは認めなくてはなるまい」(p10)と説明されています。
上記スコアでみると、前期3.37。4.00が最大可能スコアなので、計画されたがつくられなかった61町と「街区あいまい」とした98町があり、「利用なし」のブロックも残って3.37となった。けれども現代のニュータウン開発を考えた場合も「利用なし」や造成中などで「街区あいまい」な箇所も残るのが普通なので、3.37という数字はかなり完成度が高いのではと(勝手に)想像します。793年から805年の短期に行った事業としてはかなりがんばったのでは。また、前期3.37が中期3.40とスコアが微増しているのも、なかなか充実していたのではと思います。

第二。けれども今の個所を「右京」と「左京」に分けると、少し事情が違う。前期3.37は、「右京」3.08と「左京」3.67を平均したもの。中期3.40は「右京」2.98「左京」3.83を平均したものです。もともと右京での市街化度が3程度だったのに加え中期には3を割ってしまっている。一方の左京は前期で3.67が中期で3.83とかなり飽和している。これだけ飽和しているということは既に当初の都市計画外に市街地が拡大していることを示唆しており実際そうなっている。
右京は中期の段階で「街区あいまい」としたブロックが136と、前期98からかなり増加しており、「利用あり」も同じくらい減少している。さきの現代ニュータウン的表現でいえば、造成はしたけどなかなか埋まらない部分や、上物まで建設したが空き家だらけ、、といった感じが漂い始めている。(←やや飛躍気味の表現ですみません)

第三。それでも紫式部が源氏物語を執筆していた頃(1008年に初出とされる)はまだこれくらいの市街化度を保っていたこと、その執筆場所があったとされる現在の蘆山寺あたりはまさに市街化が飽和し当初都市計画外に市街地が拡大しているような場所だったと考えると、京が寂れているとは認識されていなかったかもしれない。(正確かつ深い考察は『京都の中世史』第7巻をご覧ください)

第四。後期の平均市街化スコア3.02というのも、全体としてはなんとか平安京の都市計画はがんばったといえるスコアにみえる。ただし右京は2.14まで低下。これとは対照的に左京はさらに3.89とスコアが上がり4.00に接近している。現代不動産事情的にいえば「空き家率」がゼロに近く人気エリアの様相です。ここにきて、平均して「街区あいまい」の2.14の右京と、平均4.00に近い左京が隣り合った、両極に分裂した京の姿が思い浮かびます(『京都の中世史』第7巻p29がその図。一目でそう見える)。

 

都市計画をどれくらいの時間スパンで評価するかによりますが、建設期間が10年余だった割には市街化度は高いところまで立ち上がり、さらに中期にかけて充実していくさまには、平安京に託された、あるいは注がれた思いやエネルギーの強さを感じたりもします。平城京や造りかけの長岡京、さらには難波宮などからも部材や人材などをかき集め、かなりのマンパワーを動員し、おそらくはハイレベルの土木技術等を背景としている。もちろん、過去の失敗にも学びながら多くの貴族たちを組織化してその後の「動かぬ都」を築いていく政治力・組織力・マネジメント能力についても興味が湧くところです。

 

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