1872年5月7日 (品川フィールド(その7))

旧暦の1872年5月7日。日本最初の鉄道が横浜-品川間に開通しました。あれっ?横浜-新橋間じゃないの?

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品川駅前広場にある碑をみると(上の写真)、確かに「明治五年五月七日」と書いてあります。新橋まで開通したのは4か月後のこと(旧暦9月12日。新暦10月14日)。「品川-新橋間の工事が遅れたため」と説明にはありますが、なぜ遅れたのかとか、なぜ品川開業を先行させたのかなどについても興味の湧くところです。この記念碑によれば、、、

5月7日の開業当時の時刻表。横浜発午前8時。ノンストップで品川着8時35分。所要時間35分というのは、かなりがんばったのではと思います。すぐ品川発9時。横浜着9時35分。これが第一便です。かなり時間が空いて、午後4時。第二便が横浜発。4時35分に品川着。すぐ午後5時に品川発。5時35分横浜着。以上、初日はこれでおわり。そのことが碑に刻まれています。ただし、翌日から6往復になったとされます。席は「上等」「中等」「下等」に分かれ、運賃はそれぞれ1円50銭、1円、50銭。

 

(その6)で取り上げた「高輪築堤」ですが、品川駅付近からはじまり2.7キロメートルに及ぶ土木工事でした。「一度埋め立てた土砂が波に流されて築堤が崩壊するなど難工事となり、完成したのは正式開業直前の明治5年9月となった」(港区郷土歴史館)とあるので、さきの「品川-新橋間の工事が遅れたため」というのは、「工事が順調にいっていれば正式開業のかなり前には仮開通し試運転などを経て開業記念列車を走らせるつもりだったが、品川-新橋間の工事が遅れたため、まずは工事の終わった横浜-品川間を暫定開業して試運転をするなど万全の準備を行い、なんとか開業直前に新橋まで工事が完了したため無事に開業記念式典列車を走らせることができた」という感じかもしれません。9両編成の式典列車の6号車には、『青天を衝け』で「横浜焼き討ち」を断念した(2021年5月2日放送)渋沢栄一も大蔵省の一員として乗っていたとされます。

 

「品川フィールド」には日本の近代化にまつわるさまざまな出来事がギッシリ詰まっている。新たな開発の中でそれらがふと発掘されたり再解釈されるとき、「都市の進化」にも独特な味わいが添えられるのではないかと思います。