『鎌倉殿の13人』を通して見る日本の中世の都市・地域・国土システム (都市は進化する77)

当時としては世界的にみても大規模な都市であり、かつ、“武家の都”という独特な性格をもつ「鎌倉」はどのようにつくられたのか、どのような都市だったかを知るカギをにぎる源頼朝とはどのような人物だったのか。何を考えどのような「鎌倉」をめざしたのか。残念ながら、源頼朝という人物は描きにくく、描いたとしてもおもしろくはなく(なさそうで)、NHK大河ドラマで描いたとしても視聴率はとれない、、、。だったらやめておこう。と考えられてきたかどうかわかりませんが、他の歴史的人物に比べてわかりにくい、描きにくいのが〈源頼朝と鎌倉〉だったと思います。

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は3ヶ月話が進み、鎌倉という都に建てた御殿で繰り広げられるさまざまな葛藤をドラマ風に描き、これまで縁遠かった頼朝も、身近に感じられる存在になっています。

本ブログで5年前に編集をはじめた「日本の都市と都市計画」ですが、古代の都と近世の城下町の間の中世がきわめて薄いままです。都市そのものの成長が、まだこの頃にはみられなかったことが最大の要因と思われますが、このところ研究や発掘作業などが進み、この「溝」を埋める材料が増えてきました。これから、グローバルな文脈も意識しながらこの部分に光を当ててみたいと思います。

予備的に、3月までの『鎌倉殿の13人』から(勝手に)読み取れそうな「日本の都市と都市計画」観点をあげるとすると、、

第一。東国の武士たちからみる都人頼朝像。脚色でかなりこの点がデフォルメされていて「とっつきやすい」頼朝にしてくれているとともに、今後ずっと引きずっていく「都(京都)」と「東国(鎌倉)」の確執・補完・相互影響についても、「都人頼朝」像の設定を初期条件としながらデザインされていくものと思われます。この枠組みは頼朝がいなくなっても、鎌倉の源氏が途絶えたあとも受け継がれ日本の都市システムの進化を方向づける構造のようなものになりそうだと感じます。

第二。東国の内部構造。伊豆、相模を中心に「鎌倉」がどう機能していたか。関東までひろげるとどうなるか。(今のところ、どのような経緯のうえに「鎌倉」が成立したかの入口まで。)

第三。鎌倉の中枢部の組織化過程とその空間への反映。(3月27日の回で描かれはじめた。空間への反映(=都市計画)まではドラマだけでは限界。)

第四。これは『鎌倉殿の13人』というより『太平記』的テーマですが、攻め落とされたあとの鎌倉、武家化した京の都市としての変容・都市計画。後者については近年の研究成果が「京都の中世史」として吉川弘文館より刊行中(全7巻)。いずれとりあげたいと思います。

 

🔖検索 「鎌倉」「東国」

 

【in evolution】日本の都市と都市計画
本記事をリストに追加しました。
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757