『飛鳥の宮と藤原京』(都市は進化する100)

「まだ研究ははじまったばかりである」(p252)と結ばれる『飛鳥の宮と藤原京』(吉川弘文館)が書かれたのは2008年のことなので、2022年までの14年間に研究の進展~主に発掘調査による新たな知見の追加~があったかもしれません。おかしなもので、これだけスピードの速い現代社会で、1300年前の都市や都市計画の実態を知ろうと、発掘作業が進められている。そしておもしろいことに、次々と新しい発見があり歴史が書き換えられ、書き加えられている。さらにおもしろいことに、現代を生きる私たちにとって遺跡やその復元も「まちづくり」の一駒であり、それらを体験する側にも発見や驚きがあり、その成果は地域の誇りにもなる。

 

本書は、単なる豪族のリーダーのレベルを超える「天皇」という地位を確立する契機となった「壬申の乱」(672年)のあと、本格的な日本の都をつくろうとはじめられた「飛鳥の宮」から「藤原京」までの連続的な動態を、考古学の成果を諸説や諸文献と照らし合わせながら論じた仮説提起/研究課題提起の書です。歴史学の世界では多くの論点があると思われますが、都市計画の視点からは、この書で示されている空間的な「都の変遷」の実証データがとても貴重でいろいろな発見や驚きがあったので、そのポイントだけ簡潔に並べます。

第一。これまで言葉だけではボンヤリしていた(というよりいろいろありすぎて結局は理解できていなかった)「飛鳥」について、壬申の乱の後の「天皇」という地位があらわれはじめたあとの「宮(王宮)」の位置と「都(=京)」との関係が、地図表現で明確に示され、かつ、その時代的変遷がきめ細かく表現されているため、「はっきりと」理解できる。

第二。特に、166頁に示された「天武朝の飛鳥・藤原地域」図が最重要と思われる。飛鳥(だけ)を拠点としていた「斉明朝の飛鳥・藤原地域」図(p85)に比べて北側および西側への施設展開が明確にあらわれ、「新城(にいき)」と呼ばれるグリッド状の地割線が引かれている。このグリッド状にひかれた地割は少し引いてみてみると藤原京の一部に組み込まれている(p206)。すなわち、「飛鳥の宮」から「藤原京」への進化は空間的に一部重複しつつ連続している。

第三。「飛鳥の宮」から「藤原京」への進化は空間的にばかりでなく、機能的にも重複・連続している。たとえば、平城京に都が移った際、新しい藤原京から多くの建物等が移築されたが、「飛鳥の宮」にあったもので直接平城京に移されたものもある。

第四。これらの空間は正方位(南北軸にきちんと向いていること)が特徴で、それ以外の地域とも異なる空間であることが見た目で認識できた(とされる)。

 

まだまだ興味は尽きないのですが最後に、これだけのことを行った「時間」を書きとめます。壬申の乱672。天武天皇即位673(~686)。「新城」の造営スタート676。藤原宮の位置決定682。持統天皇が飛鳥宮から藤原宮に移る694。平城京への遷都政治日程に707。平城京への遷都710。グリッド線を引くくらいの時間はあったとしても、どこまで新しい都市計画ができていたかは???です。むしろ重要なのはそのことよりも、「これぞ日本の中心である」ことを対外的にも国内的にも示すに値する「都市計画」となるには力及ばず、それゆえにきわめて短時間で奈良への遷都が決まった点でしょう。さらにいえば、壬申の乱が「天皇」の地位確立の契機といってもまだ契機にすぎず、確かな「中心」とはなりえなかった。それは平城京においても繰り返され、(短期の長岡京をはさんで)平安京に至ってようやく安定した基盤が根付いた。しかし平安京で「根付いた」といってもまだまだ先があり、、、ということで、それはずっと続いて今に至っている。「都市は進化する。」

 

[関連記事]

・『都はなぜ移るのか 遷都の古代史』 (2017.2.22)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170222/1487760737

・『平安京はいらなかった』×『坂東の成立』(2017.4.15)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170415/1492240701

 

【in evolution】日本の都市と都市計画
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http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757

 

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