「日本の都市・都市計画」の進化 : 平安京から城下町まで (都市は進化する109)

「私は、幕府を京へ移そうと思う。」

昨晩の『鎌倉殿の13人』で、とうとう源実朝の口からこのようなことが語られました。

「殺戮場面ばかりで怖くて見ていられない」との声もあちこちから聞こえる今回のドラマも、いよいよクライマックスに向けてグッと振れ幅が大きくなってきました。いよいよ年末です。

 

さて、天皇の力が相対的に弱まり武士に頼らなければ国内を治められない時代のはじまりの象徴が鎌倉時代だったとすると、鎌倉時代は短命に終わり、一応「室町時代」と名前がついているその時代の室町幕府が安定していたのはせいぜい1400年から1440年代くらいまでで、この安定も短命と考えると、結局そのあと「殺戮場面ばかりの」戦国時代となり、江戸時代になってようやく国内が安定した。1150年くらいから1600年までの450年間はずっと定まらない(不安定な)時代だったと言えなくもない。

けれども、「日本の都市・都市計画の進化」の観点からみると、この時間は、中国の都城を模した(コピーだった)平安京などの日本の古代都市計画が、日本オリジナルの都市・都市計画として進化するのに要した時間・プロセスだったと理解できると思います。『都はなぜ移るのか』が平安京という安定した都市を生み出すまでのプロセスだったとすると、「日本独自の都市(城下町)はどうやって誕生したのか」のプロセスと時間です。

ざっくり仮説的に並べるとすると、1)鎌倉のような「武家の都」ではなく、「武家も重要だけれども藩主が統治する自律的なまとまり」へ進化するには数段階のプロセスを要した、2)国司や守護の形で中央から派遣され「上」から統治する形から、土地を媒介として「下から(地域から)」統治する形になるまでにやはり数段階のプロセスを要した、3)古代とは異なる形で国土が一元的に統一されるためには1)2)の長いプロセスを要した、4)1)を支える器としての「城下町」という都市形態・システムが普及・定着することが日本にとっての独自の都市の姿になったがそのプロセスが成熟し定着するまでには長い時間が必要だった、5)同様に「城下町」という都市システムが十分機能するだけの地域経済が回るためにはかなりの時間を要した、6)3)でいう「一元的な統一」のためにはそれを持続的に成り立たせるいくつものデバイス(藩の配置/取りつぶし・刷新などの更新システム/地方が反乱しないためのさまざまな工夫等/海外からの雑音を取り除くためのさまざまな工夫)が必要で、それらが確立できてようやく安定した都市/地域/国土システムとなった。

 

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【In evolution】日本の都市と都市計画
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