日比谷通り(市区改正)と芝公園 (都市は進化する124)

きっかけは、日比谷通りを介して日比谷公園と向かい合う、帝国ホテルを含む一群のビルを建て替える壮大なプロジェクトが、国家戦略特区の「都市再生プロジェクト」により進み出したことです。鹿鳴館があり西洋化の象徴でもあったこの場所がどうなるかを考えはじめ(⇒1月2日記事)たとき、この日比谷通りこそが、江戸の市街地を「開く」近代都市計画(市区改正)の最初の重要な街路だったと思うようになりました。日比谷通りを計画してはじめて日比谷公園の位置も決まった、、、

との発想で「日比谷通り」をたどると、もう1箇所、「芝公園」が、市区改正により増上寺を開削して生まれてきたものであることに気づきました。今、道路上に建っている「大門」までが増上寺の境内だったと。

 

そういえば、、、

港区役所に行くとき、「大門」の横を通ってその先の路地に入ります。すぐの所に「常照院」という、とても良い雰囲気のお寺がありその脇にある自動販売機で缶コーヒーを飲んだり新聞を見たりしてのんびり一時を過ごします。きわめて個人的な時間ですが、気になり、明治21(1888年)の地図を見てみると、まだ日比谷通り開削前で、増上寺境内と思われるその場所は「常照院」となっている。路地の様子も今日のものと同じ。ということは、、と、あたりを見てみると、「花岳院」(←いつもこの前を通る)はじめ、多くの院が継承されている。日比谷通りより西側は明らかに「増上寺」に見えるけれども、通りの東も「大門」までが増上寺だったと想像すると、現在でもそのような雰囲気が継承されている。

市区改正で増上寺境内を開削して日比谷通りができた。その他の近代的街路もいくらかは拡幅されたり付加されたりした。けれども、旧増上寺は「とても良い雰囲気のお寺がありその脇にある自動販売機で缶コーヒーを飲んだり新聞を見たりしてのんびり一時を過ごします」のような形で引き継がれている。

 

令和2(2020)年、「芝公園を核としたまちづくり構想」が東京都から発表されました(⇒資料)。これから一帯は大きく変わります。その際、市区改正以来の近代都市計画の先に、何を継承し何を付け加えるのか。

「大門」を東に歩くと、その先は港へとつながります。

 

 

[資料] 「芝公園を核としたまちづくり構想」

 

[関連記事]

❝芝公園❞

海のゲートウェイ : 新竹芝―新浜松町