「三世紀の都市・纏向」「交通の要衝の地・纏向」(再読・纏向遺跡)

実は、表題に並べた2つの「」は、『邪馬台国の候補地 纏向遺跡』(新泉社、2008.12.20発行。著者は石野博信)の第1章および第2章のタイトルです。本書のタイトルを使うとどうしても、「邪馬台国は北九州か近畿か」のような興味に引きづられてしまうこと、また、副題の「纏向遺跡」のように「遺跡」を強調すると、「今回、何がでてきた??」のような考古学的興味に焦点が当たってしまうことから、纏向について書くのが3度目となる今回は、「日本の都市と都市計画」そのものに迫るタイトルとしました。

まずは後半の「交通の要衝の地・纏向」。1つ前の海柘榴市(つばいち)に関する記事で、「この付近は奈良盆地の東の山裾のタテのラインと、大和川から伊勢方面に抜けるヨコのラインが交わる地点にあり」と表現しましたが、纏向もまた、海柘榴市から少し北西側(難波側)に寄っただけで基本はそのような「交通の要衝の地」にあった(できた/あらわれた)。

「瀬戸内海を通ってやってきた外国の物資を積んだ船が大和川をさかのぼり、奈良県に入ったところで亀の瀬の急流地域で川船に乗り換え、纏向のマチのなかへ物資を運んでくることができる」(p19)。そして纏向の外から入ってきた「外来系」土器の多さなどから「他地域の人びとが集住しているという点で、纏向は都市的な要素をもった集落遺跡であるということができるだろう」(p24)とされます。

次に「三世紀の都市・纏向」の認識。p6に「纏向遺跡」を中心としつつも「纏向遺跡とその周辺」を示した広域図が出ています。これによれば、この中心地は「纏向遺跡」だけが単独であったというより、「交通の要衝の地・纏向」という地の利を活かしつつ、遺跡の周辺に多くの古墳の存在が確認されるなど、「都市地域」ともいえそうなひろがりをもっていた。

纏向遺跡から北に1キロほどの「黒塚古墳」を訪ねた際、遺跡の傍らにある展示館の学芸員から、あたり一帯の古墳群の多くがこのころの遺跡なのだと、床に大きく敷かれた「纏向遺跡とその周辺」航空写真の上に乗っかりながら聞かされました。

 

なお、本書のp24には「都市的な集落」という節があり、「このような都市的性格をもった集落遺跡は、纏向だけではなく、福岡平野、佐賀平野、岡山平野、あるいは関東平野など各地域にあって当然だと思う」と謙虚に表現しつつ、「そのなかで現在わかっている限りでは、纏向がもっとも範囲が広く、もっとも外来系土器の比率が高い都市的な集落であるといえる」と結んでいます。

 

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【In evolution】日本の都市と都市計画
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