平安宮

平城京の宮城(平城宮)を東西に貫く近鉄の移設が合意されたあと、本年新たに就任した奈良県知事が、費用の割にメリットが無いと「待った」をかけています。平城宮の場合、現在ほとんど市街化しておらず「復元」のイメージが湧きやすく「せっかくだから近鉄にも移動してもらおう」との発想が出てきます。

それに対して「平安宮」といわれても、教科書に出ていた、「当初の都市計画図の中央上方に描かれていた図としての大内裏」しか思い浮かばないのが普通だと思います。なぜなら現在の「御所(京都御苑)」はかなり東に寄った別のところにあり、元の「平安宮」部分は一般的な京都市街地に埋もれていて、まったくといえるほど確認できないからです。

 

先日、「御所西エリアを回ってみよう」と歩いていると、ここは平安宮のどこそこだったという案内板等が頻繁に出ていて驚きました。今風にいうと、一条通から南、二条通から北、大宮通から西、御前通から東が平安宮エリアで、千本通が朱雀大路。

理屈では、あるいは現在の地図上ではそうかもしれませんが、市街地としては「宮」の内外で違いがあるわけではないので、ピンとはこない。けれども自分としては「オリジナル平安京(宮)」に出会えた気がして、一挙に1200年をさかのぼり平安京をつくった頃の様子を想像しました。平城宮はそれ自体を復元しようとしているとすると、平安宮は歴史の記憶や記録を復元する作業となる。

 

などとなかなか前に進まずうろうろしていると、「都市探訪224」の現場を発見しました。この現場は「平安宮発掘調査」だけでなく「聚楽第発掘調査」もしている。右京方面が早くから廃れていたため秀吉はここらあたりに広大な聚楽第を築いた。しかしそれも現代京都市街地に埋もれており、こうして(おそらく)開発計画があるたびに少なくともそこだけは調査する。京都市の調査記録を見てみると、パッと見でこのあたりの市街地の3分の1ほどはパッチワーク状に調査されている。その断片がつなぎ合わされ、古文書などの文字の記録などとも照合されて、「平安宮の内裏のこのあたりはこうだったんじゃないか」とか「聚楽第の西の掘はこの辺まで掘られていたようだ」といった「歴史」が再生(修復?)されてゆく。

京都は1000年以上も日本の都だったので、本当は「平安宮」と「聚楽第」だけが歴史ではないとはいえ、そのように堆積された歴史の重みこそが京都という街そのものであり、味わい方がさまざまにあり、時間をかけて味わうと、人それぞれに味が異なり、その多様性こそが歴史都市の魅力なのではないか。

 

2024.1.7から紫式部の生涯を描いた『光る君へ』(NHK大河ドラマ)がスタートします。自分なりに平安京の記録や記憶をたどり京都という都市をじっくり味わってみたいと思います。

 

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