前1C~後3Cをより大きな動態に位置づける

奈良盆地に日本ではじめて都市的地域があらわれた理由を、人口動態から考えてみます。

「社会実情データ図録」の図録7240番を用いて、地域をいくつかにまとめたのが下表です。(縄文時代は紀元前1300年の数字を使います。弥生時代は紀元200年の数字が示されているのでそれを使います。奈良時代は725年の数字です。)

いくつか読み取れることを整理すると、

第一。縄文時代の人口は東日本が中心で、「畿内・畿内周辺」やそれ以西の人口はかなり少なかった。

第二。農耕がはじまり人々が土地に定着するようになった弥生時代に日本の人口が4倍ほどになったがそれらは「北陸・東山・東海」以西で増加し、特にそれまで人口のまばらだった「畿内・畿内」では人口は25倍に、「山陽・山陰・四国・北九州・南九州」でも10倍以上になった。このことが地域に富が蓄積され集落が大規模化しやがて都市的地域があらわれてくる素地となったと考えられる。

第三。ここから、奈良盆地だけに都市的様相をもつ大規模農村集落が出現したというより、「このような都市的性格をもった集落遺跡は、纏向だけではなく、福岡平野、佐賀平野、岡山平野、あるいは関東平野など各地域にあって当然だと思う」との類推が成り立ち、「そのなかで現在わかっている限りでは、纏向がもっとも範囲が広く、もっとも外来系土器の比率が高い都市的な集落であるといえる」との指摘(⇒2023.3.22記事)を読み取ることで、前1C~後3Cの様子を少し体系的・定量的に理解することが可能になる。

 

 

【in evolution】日本の都市と都市計画(a-1 古代都市の生成過程)に本記事をリストに追加しました。
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757

 

唐古[遺跡]から纏向[遺跡]へ (前1C~後3Cへの補助線)

弥生時代の遺跡としては最大の唐古遺跡(唐子・鍵遺跡)をはじめて訪れました。纏向遺跡から数キロしか離れていないこの遺跡の意味を知ることは、日本最初の都市誕生の1つの手がかりになるのではないかと。紀元前1世紀に最盛期を迎えた唐古遺跡(唐古・鍵遺跡)と3世紀はじめの纏向遺跡の間には200年余の「差」があるのですが。

唐古・鍵考古学ミュージアムに立ち寄ったF先生にたまたまお話をうかがう幸運に恵まれ(←たまたまその時間にいたのは私の方です)、理解した内容をもとに私の責任でいくつか書き留めます。

 

第一。残念ながら今のところ唐古遺跡から纏向遺跡への直接的つながりはとても弱い。時代に隔たりもかなりあるし。

第二。しかし、唐古遺跡も以下のようにかなりの文明的段階に達していた。まず、弥生時代の遺跡としては最大規模になった。中心となる環濠集落の周辺には数々の集落があり、それらの中心的役割を果たしていた。さらに広域的なネットワークをもち、近畿地方の範囲をはるかに越えた交流もあった。

第三。そうすると、ある意味、唐古は、ネットワークの頂点に近い役割を担っていたと想像することもできなくはない。「都市」とまではいえないとしても、単なる「弥生時代の大規模集落」ではすまされない文明段階を感じさせる。

第四。しかし唐古と纏向の間に200年余の「日本の歴史(の進化)」があり、どのように纏向を打ち立てたかには諸説あって、唐古から纏向への連続性のあるストーリーは組みがたい。

第五。とはいえ幾筋かの仮説的「補助線」は引けなくもないので、現時点であえてうっすらと引いてみます。その1。地域的サポート。唐古を成り立たせていた地域の有力者らの協力。その2。最盛期ではなかったとはいえまだ技術的にも文化的蓄積の面でも力があったと考えられる直接的貢献。その3。その総合力の高さゆえにこの地に次の段階の文明(都市)が誕生した。(もとはといえば弥生時代の高度な文明段階に達し得たというこの地域の力の存在。)

 

最後に、F先生の著書の紹介文から引用させていただきます。

「弥生時代700年の長期にわたって、唐古・鍵の人たちが営々と築き上げてきた高度な文化が、次の時代へと継承されていったからこそ、この地域に王権が誕生することになったと私は考える。」

 

日本最初の都市の誕生は、纏向側からだけでなく、唐古側からも研究されることで、200年余の溝が過ごしずつ埋まっていくことを想像しました。



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品川駅ビル着工へ (品川フィールド24)

2024.2.1に駅前のタクシープールが廃止され、いよいよ新駅ビル本体の工事が間近と思われます。

2030年度までのイメージを、下の写真をもとに整理してみます。

 

 

第一。正面に見える駅コンコース(デッキ階)が手前側に延伸され、国道上の大きなデッキを越え、手前の再開発によるデッキに接続する。かなり想像力を使わないとイメージできない大きな改変ですが、これを基本に据えると以下がイメージしやすくなる。

第二。正面に走っている京浜急行を地上に下ろす準備工事がかなり進み、線路を下に下ろすことでコンコースを手前に貫通できるようになる。

第三。その過程で、これから建てる品川駅ビルの構造の中に京浜急行品川駅が収まるような手順で工事する。デッキ階もビルの中を貫通するように計画している。駅ビルはおおまかにいうと上方で北棟と南棟に分かれるが、貫通部分は連続する下方部分に設ける。位置的には北棟に含まれ、先に2030年度までに北棟とコンコース貫通部分をつくる。

第四。この間、国道上のデッキ工事を行う。今の国道は西側(写真手前側)にかなり拡幅されるところが重要で、それにより東側の地上部に南北に長い交通広場をとる。写真のように今は多くの車が往来しているので、この点も理解を困難にしている。地上部は車さばき、デッキ階に事実上の広い駅前広場ができそのまま西側の再開発と一体化する。旧品川グースの再開発工事完成は2026年度と見込まれるので、2030年度までには第一から第四までの工事が一段落すると思われる。

 

実際にはこれに加え、国道上のデッキに新しい交通システムが登ってくる計画もありますが、とりあえず自分自身の理解のためにも、第一~第四のようなイメージをもつことにしました!