『アダム・スミスとその時代』

ニコラス・フィリップソン著、永井大輔訳、白水社2014.7.15刊。
あさってに投票を控えたスコットランド。そのスコットランドが1707年にイングランドと「合同」しグレートブリテン王国になることを選択した最大の理由とされる経済的メリットが大いに発揮されつつあった1776年に誕生した『国富論』。ジャック・アタリによれば世界の中心都市がアムステルダムからロンドンに移ったのが1788年とされます(⇒『21世紀の歴史』)。世界の海を制したイギリスの一員としてスコットランドのジェントリーたちがいかに利益をあげ人口が増え都市が成長したかが、本書の意図はともかく、詳細に描かれています。アダムスミスはエディンバラ郊外のカーコーディに生まれ、そのエディンバラグラスゴーの発展を目の当たりにしながら成長します。勉学のためオックスフォード大学に行く時も「スミスはオックスフォード行きに、特別高い期待を抱くことはなかったはずである。カーコーディやグラスゴーでスミスが参加していた改革派ウィッグの人びとは、長らくオックスフォードのことを、ジャコバイトと熱狂的な高教会派がはびこる汚水だめで、文字通り学問的に不毛であると見なしていた」(p85)。
いわゆる「スコットランド啓蒙」といわれる、哲学や科学技術の分野で世界の最先端を切り開いていた当時のスコットランドに『国富論』が生まれたのは偶然ではなく、おそらくは、スコットランドが世界の海を制覇しようとしていたイングランドと合同したことによる影響は甚大だったと思われます。ワットが蒸気機関を実用化したのも1776年。それはグラスゴーにおいてでした。奇しくもその前年から重税に耐えかねたアメリカの独立戦争がはじまり、1783年にアメリカはイギリスから離れていくのでした、、、
本書について諸紙の書評では『道徳感情論』を中心とする人間学の部分が強調されているのですが、なぜスコットランドで当時これだけ学問が世界をリードしそこから生み出された科学・技術が普遍化したかを考えるためには、人間が(善く)生きようとする結果として世界がよくなる(はずだ)という部分の理論化に生涯こだわったアダムスミスの原点に立ちかえり、生涯のそれぞれの場面を1つ1つ追体験しながら、彼が最後に至ってもなお手を加えていたと思われると解説される以下の部分をじっくり味わう必要がありそうです。
「哲学を駆り立てる糧となっているのは、実益を得ようという望みではなく驚異の気持ちであって、その直接の報酬とは「ばらばらになったこれらすべての対象をつなげる、見えない鎖」を探し求めることにともなう快楽である」(p374)。