New SubUrbanisms

「New Urbanism」の次の都市計画理論ともいうべき、「New SubUrbanism」論。
Judith K. De Jong著、ROUTLEDGE、2014刊。
第1章の「フレームワーク」がおもしろいです。郊外化というと住宅だけが郊外化したととらえられがちだが、当初よりアメリカ都市の郊外化は工場や大学、オフィスビルなどが安く広い土地を求めて都市から出て行った。都市の進化過程でそれらが中心性を持つに至った場合もあり、近年の統計をみても郊外は自立的になりつつある(郊外の都市化)。一方で近年、都市内部に郊外化ともいうべき現象が多くみられるようになった。『フラット化する世界』(⇒都市イノベーション読本 第41話)で指摘されているように、現代社会はフラット化しつつあるのだ。すなわち今日の都市化は「New Urbanism」的であると同時に「New Suburbanism」的でもあるという意味で「New SubUrbanism」呼ぶのが適している、との議論が展開されます。
そうですね。理屈のうえでは、「New Urbanism」+「New Suburbanism」=「New SubUrbanism」です。
ただし、この著者は「New Suburbanism」論は「New Urbanism」のように定式化されず、一部の建築家(レム・コールハースなど)がそうとは言わずにアメリカ以外の場所で実践してきたと評価します。

フラット化した都市の様態が、「New Urbanism」+「New Suburbanism」=「New SubUrbanism」であるとするこの議論。なかなか挑戦的です。「である」とすることと「であるべき」とすることの間にひろがる大きなギャップを埋めないと、単なる現状肯定型の「である」のリストになりかねない危険も持ち合わせます。また、このアイデアはヒューストンとシカゴから抽出されたもの。著者もいうように、そのヒューストンとシカゴでの現象も進行中のものです。

とはいえ、ふと、西沢立衛氏の十和田現代美術館に行った時のことがなぜか思い出されました。あの立派な(だったはずの)商店街の一角が集客施設の形で「SubUrbanization」(Suburbanizationではない)しており、そのような目で市街を観察してみると、あちこちで市街地が「SubUrbanization」や「Suburbanization」をしつつ変容・溶解しつつあることが見て取れました。
この図書風にいえば、「Urbanism」と「Suburbanism」と「SubUrbanism」がうまく組み合わさらないと、それぞれの個性をもった都市はうまくいかない。したがってたとえば十和田市の都市運営も、そのような一歩下がった目をもちつつ1つ1つの建築や開発や計画をイノベイティブにとらえ実行していかなければならない、ということなのでしょう。「1つ1つ」といってもそこにはゾーニングコードや駐車場規制等の制度も深くかかわっており、本書ではそうした技術面も含めて多数の事例が吟味・紹介されています。

[関連記事]
・「New Urbanism & American Planning」(都市イノベーション読本 第20話)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20111101/1320112303
・「SmartCode」(都市イノベーション読本 第67話)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20121030/1351562650
・「International Perspectives on Suburbanization:A Post-Suburban World?」(都市イノベーション読本 第81話)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20130212/1360637179
・「RETROFITTING SUBURBIA (updated edition)」(都市イノベーション読本 第82話)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20130219/1361249505