『堺−海の都市文明』

15世紀後半から17世紀初頭にかけて繁栄し「東洋のベニス」といわれたという堺。11月29日の記事でとりあげた『近世都市の成立』では堺の「近世化」について徳川幕府による都市計画をとりあげています。それに対して本書(PHP新書104、角山榮著、2000刊)は、以下の点においてスケールがよりグローバルかつ普遍的で、日本の都市、都市計画、都市イノベーションを考えるうえで欠かせない視点を提供していて、考えさせられます。
第一に、堺という都市が興隆した理由。15世紀の日本は日明貿易の莫大な独占的利益をわが物にすべく激しく争っていた時代で(端的にいうと、明との間でルール化した船の隻数をわが物にしようと争いを繰り広げ、明からもあきれられていた)、それは応仁の乱とも関係しており、乱により博多港と争っていた神戸港も灰燼に帰し瀬戸内航路もとれなくなった結果として堺港が注目され富を築くことになったことです。
しかし第二におもしろいのはここからで、グローバルな視点。領土に対する野心をもたず自由貿易を良しとした平和なアジアの中に、砦の構築を手がかりに領土を拡張しようとする西欧的野心がライバル間で競いつつ入り込んでくるのに対処するため、各国で鎖国政策がとらていくなかで、日本では長崎へと貿易の窓口が移って堺は衰退していくことです。
ただしこれには国内事情等があり、秀吉が大坂城を建設する際に堺から商人が引き抜かれ堀も埋め立てられて代わりに大坂と堺の間に大和川が開削されてしまったこと、1615年の大坂夏の陣では堺の街に火を放たれて焼失。さらには堺港は大型船に対応できず、次第に歴史の中に埋もれていきます。(『近世都市の成立』ではこのあとの徳川時代の新都市計画を強調)
さらに本書で最もおもしろいのは第三に、では、堺が築いた巨万の富はいったいどこに行ってしまったのかとの問いです。「東洋のベニス」というときの本家ベネチアには今でも当時の栄華をしのぶ都市や建築が残っているのに、堺には今日行ってみてもほとんど何も残っていないのはなぜか?
もちろん「1615年に焼失していなければ残っていた」と言えなくもない面もあるとは思いますが、日本の都市には大火がつきものなのでそれはとりあえず横に置いておきます。著者の分析によれば、ひとつにそれは、応仁の乱で荒廃した京の復興に使われたのではと。例えば大徳寺の復興などが分析され、また、堺の寺社は京都に本家があることなどをあげて論じています。その背景として日本では(商人が)金儲けするのは良しとされず(江戸時代にも「士農工商」の形で商人は最下位の身分とされ)寺への寄進がさかんに行われたことです。ふたつめに富は、茶の湯文化へと昇華し貢献したのだと。これは実証するのが少し難しいかもしれませんが、、、
このように堺という都市は、世界に輝ける当時のイノベーションと同時に、都市のイノベーションとその後の持続性について考える材料も提供してくれます。それにしても富が都市に蓄積されて持続的に残らなかったのは残念です。今の大阪や京都に引き継がれていると考えればよいといえばよいのですが。超長期に都市を考えると、かつてのローマ帝国のように、持続性が重要というよりも、世界史に何らかの貢献ができたことでよしとするべきなのかもしれませんね。

[関連記事]
・「THE EVOLUTION OF GREAT WORLD CITIES」(都市イノベーション読本 第74話)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20121218/1355812601
・「近世都市の成立」(都市イノベーション2020 第63話)
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20141129/1417234824