1851年ロンドン万国博覧会と水晶宮

近代オリンピックがはじまった1896年からさかのぼること45年。
ロンドンで1851年に開催された第1回万国博覧会を象徴する水晶宮が建設されるまでの経緯を綴った『大英帝国博覧会の歴史』(松村昌家著、ミネルヴァ書房、2014.5.1刊。同じ著者の既刊『水晶宮物語』(ちくま学芸文庫)の内容を含みストーリーを深化・体系化させたもの)のPart1が本記事のタイトルとなっています。
国家をあげて取り組んだ万博と思いきやそうではなく、すべて結果においてそうなったこと、そしてその結果が水晶宮という形で時代を画す建築として示され、結果として「万国博覧会」としてその後の歴史をつくっていったことを『物語』として描いています。本書によれば、、、

そもそも最初は「美術と技術は、もともと一体であるべき」と考える民間の美術協会(1755年発足)がその理想を追う中で開いた1761年の展示会までさかのぼる。しかし当時イギリスでは「のこぎりや脱穀機」などしか集まらず、この分野ではフランスに先を越されてしまう、、、

などの前史にはじまり、会場案をコンペで募り内外から245件もの応募があったにもかかわらず結果は「該当なし」。やむを得ず、主催者となる王立博覧会委員会のもとに建築委員会をつくり委員会案を提案するも平凡でかなりの不評。そうこうしているうちに結果として水晶宮とのちに呼ばれる建築がパクストンにより提案されて、、と、2転3転。この案が承認されたのは万博がはじまる9か月ほど前。しかし寄付で大会を賄おうとの方針に集まったお金はこの時点でゼロ。などなど、「結果において」成功した第1回万国博覧会までの経緯が描かれます。
この博覧会そのものが成功しただけでなく、余剰金でサウスケンジントン一帯の文化施設街(アルバートポリス)の土地を購入して文化ゾーンへの進化に貢献していきます。

物語を読み終えてみると、途中でいろいろあったし多くの「偶然」のようなものが積み重なって「結果において」成功した都市イノベーション事例だったと思う一方で、しかしある種の必然というか、歴史のいくつかの要因が重なり合う瞬間が確かにあって、「1851年ロンドン万国博覧会水晶宮」という形で150年以上経った今でも語り継がれる、何か普遍的なイノベーションの真理を示しているように思えます。
そこにはその「必然」を支える「美術と技術は、もともと一体であるべき」と考える民間の美術協会の理想や、パクストンのそれまでの現実の課題に対応しようとした建築的試行錯誤や、もちろんアルバート公の理解と支援や、国家に頼らず寄付で大会を成功させようとするアントレプレナーシップの精神があったのだと思います。もちろん、安価で革新的な案であれば他案を退けつつ短期間でも完成させられるという裏付けや、途中の困った事態にも柔軟に対処できる現場能力も力を発揮したに違いありません。