『平安京はいらなかった』×『坂東の成立』

古代東アジアに生まれ出てきた「日本」という国と、その内部構造ともいえる「都」−「坂東」という日本国土の2極体制の生成過程を同時に理解することを可能にする2冊の図書を取り上げます。
平安京はいらなかった』(桃崎有一郎著、吉川弘文館、2016.12.1刊。歴史文化ライブラリー438)と『坂東の成立』(川尻秋生著、吉川弘文館、2017.2.10刊。「古代の東国」第2巻)です。

オリンピックや「人口減少社会」などにからんで、東京への一極集中が話題にならない日はない昨今。朝のNHKドラマ「ひよっこ」でも、1つ前の東京オリンピック開催を控えた東京への1極集中を描いていますね。
では、東京(関東)と京都(京阪神)という2極体制による日本の国土というのは、いったいいつ頃から、どのようにしてできてきたのか。
これまでの自分の理解が、せいぜい「北面の武士」から平氏、源氏が育ち、やがて鎌倉に幕府が開かれて、、、という意味で平安末期頃からととらえていたのに対して、『坂東の成立』を読むと、はるかそれ以前の、ある意味、大化の改新の頃から日本の「都」をしっかり定めようとしたその反作用として、軍事力供給地域としての「東国・坂東」が成立したのだということが、近年の考古学・歴史学の成果として示されていて、驚かされました。

一方、『平安京はいらなかった』は、中世の研究者からみて不必要に思える、たとえば平安京の広すぎる朱雀大路がなぜ、誰にとって必要だったかを読み解くなかで、対外勢力から身を守りつつ日本の中心が「ここ」であることをあえて示すための「劇場都市」として当初は設計され維持管理しようとしたとします。従って、300年続いた唐が907年に終焉して大陸からのプレッシャーが弱まると虚勢を張る必要もなくなり、「見せる」ための都は「住みやすい」実用的な都市へ作り替えられて、中世の「京都」へと移行したのだと。

「坂東」の地はいわば日本の“動かない都”を成立させ維持するためのバックアップのための地域として、あるときは東北方面を従えるための前線基地として(「征夷」)、あるときは大陸や半島からの脅威から身を守る前線基地への軍事力供給源として(「防人」)国づくりを支えたとするのが『坂東の成立』。それは、「征夷」が行われていた時期には「防人」への投入人数は薄く(対外防衛の必要性が低い時期)、坂東から「防人」に人員を割いていた時期には「征夷」は控えていたという実証研究により説得力を増しています。

このような理解は、「日本」の都市の成立、とりわけ京(阪神)と坂東・東京という国土構造のもとでの役割分担の発生・進化をとらえた新たな視点といえ、国内事情だけでなくアジア的古代世界の進化プロセスの中で再解釈することではじめて見えてきた新しいヒストリー(ストーリー)といえそうです。

【in evolution】日本の都市と都市計画
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