1500年の都市人口

コロンブスが新大陸を「発見」した頃の世界の都市人口をみることで、近代化がはじまる前の世界の勢力分布のようなものをとらえます。

1500年当時の推定(ターシャス・チャンドラーによる)によれば、北京が672000人と最大でした。この頃の京都は応仁の乱で荒れ果て40000人(106位)にすぎません。第2位がヴィジャヤナガル(南インド)500000、3位がカイロ400000です。
2位のヴィジャヤナガルは沿岸部にマンガロールやカリカット等多数の港をもつ南インドの中心都市。
このあとチャンドラーの推定では、杭州250000人、タブリーズ(イラン)250000人、イスタンブール200000人、ガウル(インド西ベンガル)200000人が続きます。
このあとようやくパリの185000人が出てきます。イタリア都市もそのあとちらほら。当時、ロンドンはまだ数万人にすぎなかったようです。

まだ人口面でみればアジア中心で、ヨーロッパではようやくレコンキスタ終結。さて、ということで「発見」した新大陸に、コルテスを待っていたのは人口30万人を擁するテノチティトランでした。チャンドラーのリストには入っていないので、1500年時点での世界第4位はアステカの中心都市テノチティトランとします。
さらにピサロが向かったインカの中心都市クスコは人口20万人を擁していたといわれるので、(かなりおおざっぱですが)それは185000人のパリより大きかったとします。これもチャンドラーのリストには入っていません。
そうすると5位が同数で杭州タブリーズ、7位が同数でクスコとイスタンブールとガウル。このあと10位がパリ。

大航海時代で幕が明ける近代化によってこのあと関係は逆転。

しかし1500年から500年後の現在、都市人口を指標とするなら、関係は再度逆転しつつあります。地球上の人口そのものの増大を伴いつつ。

【In evolution】世界の都市と都市計画
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