『古代文明の基層 古代文明から持続的な都市社会を考える』

第1章インダス文明、第2章テオティワカン、第3章ヴェネツィアからなる小冊子。東京大学出版会2015.6.30発売(発行は大学出版部協会)。副題が本書の意図を示しています。
解説などはなく、3つの章が束ねられている形のため、以下には「都市イノベーションworld」的観点で興味深かった点を並べるにとどめます。

第一。古代都市そのもの、さらには古代から今日に至るつながりについては、まだほとんどわかっていない。正確にいうと、わかろうとしたのはつい最近のことで、まだ仮説がいくらか(場合によっては多すぎるくらい)出されている段階です。
第二。インダス文明の代表都市と考えられるモヘンジョダロについては、中央集権的文明ではなく、ネットワーク型の都市ではないかとの仮説が提示されています。運搬に使われた船は「メソポタミアペルシャ湾岸、イラン、オマーンからやってきました」(p23-24)とされます。中央集権的でないとすると、誰がどのような意図でモヘンジョダロを都市計画したのか。以前とりあげた『メソポタミアとインダスのあいだ』では、「都市というものに精通し、それまで都市というものを見たこともないスィンド地方の人々に、完成度の高い都市の設計図を提示することができたのは、イランの都市住民であった可能性が最も高い。熟考された都市計画による、整然たる都市モヘンジョ・ダロの建設は、熟練の都市設計者の指導の下でおこなわれたことは明らか」とされていますが、これも仮説。とはいえ、両者は、モヘンジョダロが「ネットワーク型の都市」だったとする点では一致しています。この先の成果が期待されます。
第三。テオティワカンについては、「紀元前後から紀元後500年代ぐらいまで榮え」(p28)たとされ、1200年頃に、廃墟となっていたそれをアステカ人が発見し、後々まで崇拝の対象としたため、コルテスがやってきて1521年にテノチティトランを破壊したときも生き延び(廃墟の状態だったため、破壊する必要がなかったからと思われる。)現在に至っているようです。考古学的成果のうえに描かれたテオティワカン全図(p30)には迫力もあり、この都市が「英知の集積としての都市」(第2章副題)とするその内容にも興味を引かれるところですが、(現役の)テノチティトランを破壊してそのあとにカトリック大聖堂を建てたとされるコルテスの気持ち(役割/野望)を理解しようとすると、遭遇した30万都市テノチティトランの大神殿の迫力のほうがはるかに真に迫り、その時点において、テオティワカンも含め営々と築いてきた中米の古代文明の進化が形のうえで最期の時を迎えたのだと改めて感じます。先日、そのカトリック大聖堂を訪れたとき、ミサの最中でした。そのあと大聖堂の隣にあるテノチティトランの発掘現場(テンプロ・マヨール)をうろうろしていると正午近くになり、その大聖堂の鐘がかなりの時間をかけて鳴り響くのでした。
第四。ヴェネツィアを扱った第3章の副題「交易都市から文化都市へ」との視点でとらえた内容は新鮮でした。ベネチアの覇権が衰えたあと「分散的な都市から統合的な都市へとシフト」(p60)し空間的にも都市が刷新されていく様子が示されています。『古代文明の基層』との観点からは、古代ローマとのつながりに関する近年の考古学的成果が少し書かれていました。

[関連記事]
・『メソポタミアとインダスのあいだ』
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20160108/1452225986
・『十二世紀ルネサンス
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20160110/1452394891
・『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797』
http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20151213/1450009146

【In evolution】世界の都市と都市計画
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http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170309/1489041168