『開港7都市の都市計画に関する研究』(村田明久、1995)

横浜山手を研究している博士課程のSさんに、『開港7都市の都市計画に関する研究』という博士論文知ってる?と聞くと、数日後には机の上に置いてありました!
それはありがたいと読んでみると、日本の近代化、近代都市計画の最初の最初の段階を知るための、開港都市全体をとらえて基礎資料を整理した、たいへん貴重な内容でした。幕末から明治に至る日本の、植民地化は免れたものの不平等条約を結ばされ、ある意味列強からの強い圧力を受けて策定された(対応した)都市計画。その経緯や方法はさまざまでしたが、本論文によれば、7都市の全体像がつかめるので、それらの共通性とともに特異性や相違性などが明らかになり、例えば横浜居留地1つとっても、その真の特徴が浮き彫りになります。

横浜居留地は面積が突出して大きく(明治初期に35万坪、中期に40万坪を超える。それに次ぐ長崎が10万坪ほど、神戸が4万坪ほど。p119に図化されている)、居住地の数が群を抜いて多い(居留地が制度として解消される1899年直前の1897年の数字がp158にまとめられている。横浜の「居住地」は614件。長崎が47件で続く。ただし「雑居地」を足し合わせると神戸が162件(居留地14、雑居地148)で2番目となる)。ということは、ビジネスと同時に生活が営まれており、がゆえに競馬場やテニスコートが欲しくなったり子弟の教育も重要になってくる。横浜居留地の学校の多さも大きな特徴です(10件。長崎3件、神戸3件(ただしうち2件は雑居地))。外国人人口(欧米+中国)もこの頃5000人に達しており、ある意味、新しい外国人都市が1つできたようなもの。新たな視点で横浜をみることができそうです。
さきほど「7都市の全体像がつかめるので、それらの共通性とともに特異性や相違性などが明らかになり」と書きましたが、そればかりでなく、7都市全部を合わせたときの、日本にとっての「開国」とはどういうことだったかを考える新たな手がかりを与えてくれた気がします。

【In evolution】日本の都市と都市計画
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