横浜居留地と都市イノベーション(その1)

今年もウインブルドンテニス選手権がはじまりました。第131回です。
6月30日の記事『開港7都市の都市計画に関する研究』で、横浜居留地では「ビジネスと同時に生活が営まれており、がゆえに競馬場やテニスコートが欲しくなったり子弟の教育も重要になってくる」「外国人人口もこの頃5000人に達しており、ある意味、新しい外国人都市が1つできたようなもの」とした部分を、都市イノベーションworld的にフォローします。日本の都市の「西洋近代化」の発端のインパクトやイノベーションをいまいちどよく見てみたいと思います。

ウインブルドンテニス場の正式名は「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」。“センターコートに置いてあったローラーが老朽化したため新しくする資金集めを目的に”1877年7月9日から始まったのが現在の選手権とされます(Wikipedia)。そもそも現代的な形でのテニスが考案されたのが1873年12月、翌1874年からテニスが行われるようになったとされます。
では横浜居留地ではどうだったかというと、、、

一般の説明では以下のようになります。「第3回地所規則」といわれる「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書(1866(慶応2)年)」第10条に「山手地区を公開入札で外国人に貸与し、その手数料をその土地の改良費に用いること。山手に外国人のための公園を造営すること」とされたものの公園はなかなか造営されず、1869(明治2)年に居留民代表から再度要望が出されたため、日本政府は約書で約束した土地の代替として土地約6000坪を貸与した。居留民らは自分たちで公園を整備し、1870年に山手公園は開園したものの、公園の維持が困難となり借地料は滞納。日本側も外国側も打開策が見いだせず困惑していたところ、「レディズ・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ」が150ドルまでの地代なら納められると申し出。そこで山手公園の一部をテニスコート化して公園運営は軌道に乗った、と。山手公園で日本ではじめてテニスが行われたのが1876年、クラブによるテニスコート開設が1878年。それが日本におけるテニス発祥ストーリーであると。

とはいえ「ビジネスと同時に生活が営まれており、がゆえに競馬場やテニスコートが欲しくなったり」的な感覚までさかのぼって考えると、もう少し味わいのある、日本にとっての都市の西洋近代化の意味を深く考える解釈にたどりつきます。『ヨコハマ公園物語』(田中祥夫著、中公新書1553、2000)は山手公園開設を生麦事件(1862)にまでさかのぼって説明。まだサムライが帯刀する旧時代に外国人が一緒に暮らすためには、「行楽」の街づくりを求める外国人対応がとても重要で、彼らにとってみればそれが普段の生活そのもの。1863年には既に第3回地所規則第10条の背景の1つにもなったと考えられる「山手行楽地プラン」がアメリカ公使プリュインから提案されていたとします。

ちなみに「レディズ・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ」のメンバーは女性。1878年に日本初のテニスコートが開設されたので、1877年にはじまったウインブルドン大会には1年遅れです。ただし、ウインブルドン大会は当初男子シングルスのみ。女子シングルスがはじまったのは1884年とされます。

山手公園。やや奥まったところにあり見つけにくいですが、とても雰囲気のある素敵な場所です!

【In evolution】日本の都市と都市計画
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