『ロンドン 炎が生んだ世界都市』

本書(講談社メチエ160、1999.6.10刊。見市雅俊著)は、1666年のロンドン大火とその復興という題材をもとに、大陸的・絶対王政バロック都市風に設計提案されたクリストファー・レンの復興計画案がなぜ実施されなかったのか?。せっかく当時のグローバルな流行としてのバロック都市計画を実施するチャンスだったのに、なぜロンドンではできなかったのか?。もしかすると「できなかった」のではなく「しなかった」のか?。しなかったとするとロンドンはそもそも都市計画をしなかったのか?
などの一連の疑問に対し、歴史的にさまざまな評価がなされてきた「ロンドン大火と復興計画」に対する筆者の見解をまとめたものです。内容は「大火」「ペスト」「反カソリック」の3段構成ですが、「ペスト」の部分は復興計画の成果で伝染病が抑えられるようになったこと、「反カソリック」の部分はプロテスタントの国イギリスでなぜバロック都市計画がなされなかったかの国民性の議論になっていて、かえって全体の筋が見えにくくなるため、ここでは純粋に都市計画の成果が読みとれる「大火」の部分まで(およそ最初の100頁)を凝縮して読み取ります。

第一。レンの復興計画はバロック都市計画として良くできていたが実行されなかったと言われている。確かにそのマスタープランは実行されなかったが、翌1667年2月に成立した2つの法案により復興がなされた。1つは「火事調停裁判所」で、家主と借家人のどちらに再建能力があるかを見極めるシステムとして復興過程でうまく機能した。もう1つが「再建法」で、1)資金調達、2)道路整備、3)建築規制で構成された。1)は国からの支援は無かったが民間は自力で再建し公共領域の再建もシティに入る石炭にかかる税が使われ成果をあげた。2)は現実的な範囲で道路改良が行われた。3)は最も成果をあげ石の街に生まれ変わる力となりこのロンドン建築条例はその後の地方都市の復興モデルとなった。
第二。ではなぜマスタープランが実施されなかったのかについては、歴史的にさまざまな解釈があり、明確には断定できない。達観的にみると、イギリスでは古くから王権に制限が加えられバロック的な都市計画を受け入れる素地が弱かった(シティの商人達も住民もそのようなものに反対する)。
第三。ではそのような都市は都市計画しなかったのかというとそうではない、と本書は以下の解釈を展開します。まず、外敵を警戒するなどのために都市性を強めざるを得なかった大陸とは異なり、イギリスでは都市性に対する意識が弱い。そればかりかむしろ都市と農村にまたがるジェントリーを中心として「反都市」ともいえる田園志向をもつ。むしろ都市内の大規模土地を開発する際に「スクウェア」を設けて私生活の快適性に高い価値が置かれた。こうしたイギリスらしい方法こそがイギリスの都市計画であって、大陸型の都市計画とはそもそもの発想が異なっているのだ。「パリの大通りの背後には「未開のジャングル」が潜む。ところが、ロンドンでは優雅な「独立した村落」、すなわちスクウェアが鎮座するのだ」(p91)。(←少しこの文章わからない面もありますが気持ちは伝わる)

あまり「計画」しすぎるのではない、やや日本的なプラグマティズム的感覚。抽象的に言うと、「秩序化」をどれだけ強く求めるかの度合いの違いが、英仏両国の都市計画の違いになっているように思えます。「秩序化」ばかりでなく、「都市化」の強度も求める度合いが異なっている。そしてその違いが社会の権力構造や「都市」に対する意識構造とも大きくかかわっていて、同じ「都市計画」という言葉があてられ(う)るとしても、その内容はかなり異なっているように感じます。

【in evolution】世界の都市と都市計画
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