『氷川丸ものがたり』(建造⇒貨客船⇒病院船⇒引揚船⇒貨客船⇒引退)

 

「グローバル化が進むこの時代。日々の生活の隅々に世界がかかわっています。都市は直接そうしたグローバルな動きを反映し、また厳しい競争にもさらされています」という本ブログ案内(「Welcome page」)の通り、今回の事態で横浜は海外と接する「水際」となりました。「さまざまなテクノロジーが急速に進化しそうな2020年代ですが、それを凌ぐような災害リスクに晒されそうな2020年代のはじまりです」との本年最初の記事での予感のとおり、「災害」の概念もまた広くして備える必要がありそうです。

 

今回の主人公は氷川丸。

横浜に停泊している氷川丸がどんな船だったか。詳しくはこの本を読んでいただくとして、ここでは話題を2つに絞って本書の紹介とします。(伊藤玄二郎著、かまくら春秋社2015刊)

 

1つめ。1930年に北米航路に就航した本船ですが(⇒関連記事)、戦争となり、病院船に転身。この病院船はまさに今回の事態に関連して連日話題になっています。第3章を読むと、氷川丸がいかなるプロセスで改装されたか、「病院船」というものがなぜ世界で必要になったのか、また、その使命は何なのかなどについて詳しく書かれています。やや話はズレますが、つい先日、(たしか)CNNの番組で、アフリカで活躍する病院船「アフリカ・マーシー(船体には「mercyships.org」と書いてある)」の活動風景を見たばかりです。

 

2つめ。その規模感。1930年に誕生した氷川丸の経緯について、「横浜船渠は明治26年(1893)に船舶の修理を目的に渋沢栄一と地元の財界人らにより創立された。大正5年(1916)に造船を始めたが、7千トン級以下の貨物船17隻を建造しただけで、客船でもある氷川丸の建造はまったくの初体験だった。横浜船渠の設計スタッフは32人だったが、氷川丸の建造で一挙に150人を臨時に雇った」(p41-42)とされています。実際にどう設計したかがおもしろく、イノベイティブな内容ですがそれは本書で。

注目したいのはその規模感。横浜に停泊しているあの姿ですが、客室部分に限れば331人の定員。数千人も乗れる現代の巨大クルーズ船がいかに巨大かを痛感します。さらに時代の変化を感じるのは、昭和35(1960)年の最後の航海の乗船者258人の内訳。家族を含めフルブライト関係が119名。アメリカに帰国する高校留学生が93名という、若さあふれる航海だったとされます(p167)。

けれども船も大型化の時代。飛行機が登場したので、船というものがやっていけるために変質を迫られ、氷川丸も引退。

 

それにしても、数千人規模の、1つの「都市」のような国際船がこういうことにもなるとは、、、。

外に開かれた「港」とは、このような苦難や試練を幾たびも乗り越える中で、人々の記憶に刻まれ、その都市に味わいと深みを与える場所なのかもしれません。

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