「南アジアにおける国家形成の諸段階」(『世界歴史04』)から考えるインド都市の位置づけ

昨日の記事で、「「世界の都市と都市計画」とうたっていてもすべては描けず、メインの骨格だけ描くことになる。日本編はある意味「ケーススタデイー」のようなもので、描かれたメインの骨格に対する接続の仕方を考えることになる」と書いてみて、本当にそれでよいのかと、本日はインド都市を例に考えてみます。

標記論説が収められている『世界歴史04 南アジアと東南アジア ~15世紀』(岩波書店)が出版されたのは2022.5.27で、この地域に関する最新の研究成果にもとづき書かれたものと考えます。また、世界の都市の歴史の中で、「人口規模上位5都市」にインド都市があらわれるケースをBC430から1500年までとって表にしてみました(チャンドラーの推定値による。数字の単位は「万人」。BC430は同数で洛陽とメンフィスが10万人。1100年は同数でバグダードとカイロが15万人)。以下にポイントを整理します。

第一。この2000年の間にインド都市は4都市で6回あらわれていますが、4都市は別々の都市で、いろいろな勢力が盛衰するなかで時の勢力の首都が(どちらかというとたまたま)顔を出す。「インド」という国がもともとあったわけではなく、論説のタイトルにあるように「国家形成」は「諸段階」を経て固まってくるし、インド都市も「これぞインド都市」というものが最初からあったとは言い難い。
第二。「南アジアにおける国家形成の諸段階」で最初に出てくるインドの主要都市パータリプトラ(表のBC430のほう)は、「首都パータリプトラは当時世界最大級の都市であり、その周囲に広がるガンジス川中流域は稲作の穀倉地帯で莫大な人口を抱え、しかも航行可能なガンジス川の水路ネットワークによって相互の諸都市が緊密に結ばれていた」(p77)とされます。
第三。しかし「帝国は極めて広大で首都と属州との連絡は1か月以上を要したために州総督に大幅な裁量権を与えざるを得なかった」(同)こともあり、首都の狭いエリアのみが成熟した国家の体裁をもち「早熟な帝国」だったと評価されています。がゆえに、帝国崩壊後、部族的な政体が再興している。(なお、表に2度目に出てくるパータリプトラ(361年)はグプタ朝のときのもので、それについても「その後次第にインド世界の中心都市としての地位は失われた」(Wikipedia))
第四。こうしたことから類推すると、「カナウジ」や「カリヤーン」なども同様に、「時の勢力の首都が(どちらかというとしたまたま)顔を出す」形で顕在化した都市ではないか。
第五。逆に、さらに古代をさかのぼった時代のモヘンジョダロについてもまた別系統の、ある意味「1回限り」の出来事ととらえられる(⇒関連記事へ)。


というわけで、インド都市は大きな「世界の都市と都市計画」の流れの中に主要な筋をつくるというより、(いくつかの場面には登場するかもしれないけれども)日本と同じように「ケーススタデイー」のような位置づけになるのではないか、というのが本日時点での仮の結論です。

 

[関連記事]

『インダス文明 文明社会のダイナミズムを探る』(2022.2.16)

『メソポタミアとインダスのあいだ』 (2016.1.8)

 

【in evolution】世界の都市と都市計画
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