『桓武天皇 決断する君主』(都市は進化する176)

毎年10月22日に京都で開催される「時代祭」。

桓武天皇が794年10月22日に平安京に遷都したその日を祝います。

その桓武天皇についての最新の研究成果および新たな仮説群をひとまとめにした図書が2023.8.18に出版されました。岩波新書1983。著者は瀧浪貞子。

 

内容は「その正統性の確保と権力基盤の確立」といった感じで、ざっくりいうと、265頁のうち122頁まで(第4章まで)が「正統性の確保」。特に最後のほうで「正史」とされる『続・日本記』の不都合な箇所を桓武天皇が削除したものの反対勢力により書き加えられ、さらに嵯峨天皇(桓武天皇の子)の時代にまた差し替えられたというくだり(p111-112)は、「正統性」というものがいかにして正当化されうる(可能性が高まる)ものなのかとか、いったい「歴史」というのは何が「本当のこと」なのかといったことを考えさせられます。122頁まででかなり対抗勢力は追い落とすことができたので、あとは後半の「権力基盤の確立」へと続きます。

というわけで、この部分だけ読んでもかなりおもしろいのですが、本ブログのテーマとしてはそういった方面ではなく「なぜ/いかに平城京を棄てたか(a)」「なぜ長岡京は10年で投げ出されたのか(b)」「1000年以上も日本の都として安定していた平安京はいかにしてその基礎を築いたのか(c)」などの諸点のため、どちらかというと「その正統性の確保と権力基盤の確立」について本書の説を理解・吟味しつつそれらとの関連においてこれら(a)(b)(c)について書かれている部分を抽出・理解する、といった感じになります。

そうすると、一般に言われている(と自分が思っていた)(a)(b)(c)のとらえかた(同じとらえかたをしていても出てくる順番や重みも含む)が異なっている部分があったり、桓武天皇体制側からみると知らなかったことも書かれていたりするのでそれを1つ1つ立ち止まりながら味わうことになる。

超主観的に2つほど印象にのこったことをあげてみます。

 

1つめ。天智天皇のひ孫にあたる正統性という意味ではかなり別格の存在でありながら母が百済王国を始祖とする渡来氏族につながっていることにより「皇位継承者には成り得なかった」(本書とびら)桓武が、さまざまな歴史的経緯やシカケによって天智系ではなく聖武天皇に直接つながる道筋にめざめそれを手がかりに天皇の地位を得た。けれども最後に平安京をひらいたとき、天智天皇が志半ばでそのままになって(寂れていた)「古津」を「大津」と改めつつ平安京の外港として再生・復活させた。現在、京都から山科・大津方面に向かおうとするとすぐのところに(天智天皇の)「御陵(みささぎ)」がある。歴史はめぐりめぐって、このようにして「都」として統合されたのだと理解するとなかなか味わい深いものだと感じているところです。

2つめ。本書のメインテーマではないけれども、平安京を受け入れた側の秦氏も「『日本書紀』で応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと記される弓月君を秦氏の祖とする」(Wikipedia)とされ、土木や養蚕、織機などの技術を発揮して栄え山背国の発展に大きく寄与したとされます。こうした力に加え、遣隋使や遣唐使などの機会に学んだ大陸の都市計画制度・技術・組織に関する知識や実践能力を駆使して平安京は拓かれた。これらのうち組織については「平安造宮使」スタッフの顔ぶれや縁故関係・能力などについて詳しく書かれており(p160-167)、また、収用し造成した宅地の分配や造成工事労働についてもある程度詳しく書かれている(p169-172)ので、他の文献などと合わせ読むとかなりリアルに「平安京の都市づくり」が理解できそうです。桓武天皇らしさという点では、その造成事業の早期の打ち切りも、「方今(現在)天下の苦しむところは軍事(蝦夷征伐)と造作(都造り)となり。この両事を停むれば百姓安んぜん」(p191)との観点で決断されたものとされます。

 

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『秦氏とカモ氏 平安京以前の京都』

『都はなぜ移るのか 遷都の古代史』

 

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