平安京 の検索結果:

平安宮(その2):紫式部の仕事場と執筆場所(イメージ)

…現在の廬山寺あたり(平安京の東端)にあり、そこで源氏物語を執筆していたとされるので、どうやって仕事場へ行っていたのか想像してみます。 『光る君へ』(NHK大河ドラマ)はまだその前の段階で、お付きの者を伴いいつも徒歩で移動しているので(道長はよく馬に乗っている)、仮に一条院にも歩いて通勤していたとすると、中立売通をまっすぐ行くのが最短距離です(廬山寺も中立売通にほど近い)。その距離1.5km強。20分くらいで移動できたのではと想像します。 勤務時間は定かでありませんが、一条院な…

平安宮

…としては「オリジナル平安京(宮)」に出会えた気がして、一挙に1200年をさかのぼり平安京をつくった頃の様子を想像しました。平城宮はそれ自体を復元しようとしているとすると、平安宮は歴史の記憶や記録を復元する作業となる。 などとなかなか前に進まずうろうろしていると、「都市探訪224」の現場を発見しました。この現場は「平安宮発掘調査」だけでなく「聚楽第発掘調査」もしている。右京方面が早くから廃れていたため秀吉はここらあたりに広大な聚楽第を築いた。しかしそれも現代京都市街地に埋もれて…

『桓武天皇 決断する君主』(都市は進化する176)

…94年10月22日に平安京に遷都したその日を祝います。 その桓武天皇についての最新の研究成果および新たな仮説群をひとまとめにした図書が2023.8.18に出版されました。岩波新書1983。著者は瀧浪貞子。 内容は「その正統性の確保と権力基盤の確立」といった感じで、ざっくりいうと、265頁のうち122頁まで(第4章まで)が「正統性の確保」。特に最後のほうで「正史」とされる『続・日本記』の不都合な箇所を桓武天皇が削除したものの反対勢力により書き加えられ、さらに嵯峨天皇(桓武天皇の…

『秦氏とカモ氏 平安京以前の京都』

…)が開催されます。 平安京が計画される前から続くこの祭や、その元となったカモ氏について。あるいは同じく平安京が計画される前から太秦(うずまさ)に住みついていた秦氏が、どのように平安京を受け入れたのか、平安京とかかわったのかについて書かれた本が『秦氏とカモ氏』(臨川選書。1994.11.25刊。著者は中村修也)です。 1つ前の記事「平安京の都市計画はどの程度まで「完成」していたか?」が長文になってしまったので、今回は要点だけにとどめます。 第一。秦氏やカモ氏(ら)のこの地に対す…

平安京の都市計画はどの程度まで「完成」していたか?

…てしまったんだって。平安京の都市計画図面は立派だったかもしれないけど、やっぱり都市計画はいつでも、、、」などというよくある評価に対して、2022.12.28に取り上げた『京都の中世史』第7巻では、「これまでアバウトにしかわからなかった右京の状態についても、具体的な邸宅の発掘成果等が積み重ねられ、精緻な図面が示され、理解がグッと進む」と解説しました。 そのあと、纏向からはじめて2世紀末頃からあとの「都」がたどったあとが連続的にとらえられるようになってきたこともあり、では、平安京…

「古代都市文明の生成と伝播」(世界の都市と都市計画)を5つのパートに分けました

…響で藤原京-平城京-平安京が出てくる。「出てくる」といっても実際にどう出てきたかは「世界」のほうではなく「日本」のほうでの扱いとなります。さらに現時点での想定では、唐が907年に滅亡したあとは外圧が弱まり、日本独自の都市の進化の視点になる。元寇(モンゴル襲来)があったり西欧列強による植民地化の脅威があったりしたものの何とか幕末までしのぎそれまでのかなり長い間、独自の都市生成・進化が日本ではみられた、とのグローバルな位置づけを考えています。 そういう意味では「世界の都市と都市計…

「近代都市化とイノベーション」を4つのパートに分け全体目次ができました (都市は進化する142)

…はどうなっていたか 平安京から城下町までb-1 京都の変容と国土/地域構造の変容b-2 武家の都づくりからはじまる新たな地域拠点形成への道b-3 たちあらわれる地域経済と城下町への道b-4 自由・交易都市の生成 c 近世都市の成立とイノベーションc-1 近世都市計画 城下町の生成と成熟c-2 藩 近世の地域計画と地域経営c-3 国土管理・国富増進の視点からみた近世 d 近代都市化とイノベーションd-1 開国 都市の「西洋化」の視点からd-2 「近代都市」への脱皮d-3 戦災復…

「近世都市の成立とイノベーション」を3つのパートに分けました

…のものが発生してから平安京に都が造られ安定するまで、中世はその「平安京のトップダウンの国土経営方式の変質」と「地方のボトムアップの力の伸長」とが相互に影響しながら段階的に進化しやがて「城下町」のもととなるローカルな領域が群雄割拠していくまでのストーリーです。ここまでは時間軸に沿った形となりました。 これに対して近世のパートは、「近世都市計画 城下町の生成と成熟」「藩 近世の地域計画と地域経営」「国土管理・国富増進の視点からみた近世」と、まずは都市からはじまり地域へ、国土へと空…

「中世都市はどうなっていたか 平安京から城下町まで」(日本の都市と都市計画)を4つのパートに分けました

…はどうなっていたか 平安京から城下町まで」を4つのパートに分けてみました。「b-1 京都の変容と国土/地域構造の変容」「b-2 武家の都づくりからはじまる新たな地域拠点形成への道」「b-3 たちあらわれる地域経済と城下町への道」「b-4 自由・交易都市の生成」です。 全体を貫くストーリーは以下のようなものです。 平安京から城下町への都市の進化を理解するためには、単に「平安京」と「城下町」の都市プランを比較しても限界がある。むしろここでは、平安京という「都」の機能を結集した都市…

「古代都市の成立とイノベーション」(日本の都市と都市計画)を3つのパートに分けました

…うところまでのストーリーです。 このあと、「中世都市はどうなっていたか」の章に入りますが、そこでの大枠は「平安京から城下町まで」と副題をつけた2022.11.21の記事が仮説枠組みとなっています。形態としては唐のコピーにとどまっていた日本の都市計画が、その後の紆余曲折を経て日本独自の「城下町」に至る、その少し手前までの進化過程を考えていますが、まだ部品が足りません。この1年間でいくらか埋まった部分もあり、いずれ本筋のようなものを見つけ出してパートに分割していきたいと思います。

『京都の中世史(1)~(7)』から見える京都の都市形成史、日本の都市史(研究)の新次元 (京都と都市イノベーション(その10))

…語)のようですが、「平安京の右京は寂れていたんだって?」というこれまでアバウトにしかわからなかった右京の状態についても、具体的な邸宅の発掘成果等が積み重ねられ、精緻な図面が示され、理解がグッと進む。「最初都市計画された「平安宮」も、里内裏が一般化して崩れていった(機能分散しスカスカになっていった)んだってね」という点も同様。 第四。第一~第三の成果により、「今」の京都が、それぞれの場所が、どのような歴史的蓄積によるものなのかが理解できる。「できる」までは無理な場合も、参照ポイ…

天平の疫病(735-37)を軸に『東大寺のなりたち』を読む (都市は進化する110)

…界の強さが敬遠されて平安京へと逃れるように遷都されてしまいますが、後日談も含め、だいたい850年くらいまでの東大寺が語られています。 「平城京」といういわゆる都市・都市計画の話ではありませんが、それと同等に、あるいはそれ以上に、当時の都市・国土(国家)の形成エネルギーがいかなるものだったかを知る手がかりとなる図書として、楽しく読ませていだきました。そして驚くべきことに、東大寺の大仏は今でも現役であり、鎮護国家・天下泰平・五穀豊穣などへの願いが込められた二月堂の「お水取り」(修…

「日本の都市・都市計画」の進化 : 平安京から城下町まで (都市は進化する109)

…した(コピーだった)平安京などの日本の古代都市計画が、日本オリジナルの都市・都市計画として進化するのに要した時間・プロセスだったと理解できると思います。『都はなぜ移るのか』が平安京という安定した都市を生み出すまでのプロセスだったとすると、「日本独自の都市(城下町)はどうやって誕生したのか」のプロセスと時間です。 ざっくり仮説的に並べるとすると、1)鎌倉のような「武家の都」ではなく、「武家も重要だけれども藩主が統治する自律的なまとまり」へ進化するには数段階のプロセスを要した、2…

『「京都」の誕生 武士が造った戦乱の都』 (京都と都市イノベーション(その8))

『平安京はいらなかった』の続編ともいえる、同じ著者による論の展開です。桃崎有一郎著、文春新書2020.3.20刊。いくつかの要素(特に武士の起源の解明と京での進出の経緯)を除くと、また、独特な論の立て方を除くと、近年盛んな中世京都研究の成果と方向性は似ているので(現在、『京都の中世史』の最終巻の発行を待っているところ(⇒関連記事)。既に刊行された第1~6巻において幅広い考察がなされてきた)、本書に刺激を受けつつ少し視点をずらして(というか伸ばして)京都という都市の柔軟な進化に…

『飛鳥の宮と藤原京』(都市は進化する100)

…の長岡京をはさんで)平安京に至ってようやく安定した基盤が根付いた。しかし平安京で「根付いた」といってもまだまだ先があり、、、ということで、それはずっと続いて今に至っている。「都市は進化する。」 [関連記事] ・『都はなぜ移るのか 遷都の古代史』 (2017.2.22)http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170222/1487760737 ・『平安京はいらなかった』×『坂東の成立』(2017.4.15)http://d.hatena.ne.jp/tkm…

貞観という時代(859-876)と現代

…ると東寺があります。平安京に遷都した際の土地利用配置(都市計画の考え方)の一端に触れる気がします。869年には当時の神泉苑の南端(現在、三条御供者があるところ)に66本の鉾を立てて祇園社(八坂神社)から神輿を出したとされます。66本というのは当時の律令制度下の国の数ということから、国の災難をなんとか鎮めようと祈る気持ちまでわかるような気がします。都が持てると当時考えた最大限のパワーを動員して事態に対処しようとしたのでしょう。 当時の日本の人口は600万人ほど。1億2000万人…

800年から1500年の世界の都市人口

…が並び、Cの影響下の平安京、Bに関連するコルドバが次に位置する。(関連記事 800年の都市人口) 第二。1000年から1400年の間には人口50万人を超える都市は出ていない。特に1200年が最低となっている。ただしこの間も3位から5位の都市人口は他の時代と遜色ないことから、いわゆる古代帝国の中心のような都市が衰退したあとの、「これ」といった大きな(強い)システムが出てくるまでの推移期間だったと考えられる。この間、名のあがる都市も多様化している。日本でも中世にあたり、武士の都鎌…

人口で見る京と鎌倉の盛衰 (800~1600)

…)内は世界の順位。 平安京 鎌倉 622 - - 800 (5)200000 - 900 (4)200000 - 1000 (5)175000 - 1100 (3)175000 - 1150 (7)150000 - 1200 (18)100000 (5)175000 鎌倉幕府創設 1250 (30) 70000 (4)200000 1300 (65) 40000 (5)200000 1350 (5)150000 - 鎌倉幕府滅亡 1400 (8)150000 - 1450 (…

1020年9月の「東国」

…増え、やがて京のパワーからは一線を画した武士団が育ってくる時代へと、京からの引き締めがあったりやっぱり緩んだりしながら(緩めざるを得なくなり)、ゆっくりと進化していた。やがて京をもしのぐ東国の力が「鎌倉」という都市へとイノベーションされ集結した。 [関連記事]・『平安京はいらなかった』×『坂東の成立』 【in evolution】日本の都市と都市計画 本記事をリストに追加しました。http://d.hatena.ne.jp/tkmzoo/20170307/1488854757

800年の都市人口

…みてみます。 日本で平安京に都が移された頃、東アジアでは長安を中心とするゆるやかな都市文明が栄えていたのと同じように、コンスタンチノープル(キリスト教の中心地)やバグダード(イスラム教の中心地)を中心とするまとまりが形成されていた、、、その頃の古代世界都市システムの様子を都市人口から見てみるとどうなるか。チャンドラーの推定都市人口で大きい順に並べてみます。 バグダード 700000 長安 600000 洛陽 300000 コンスタンティノポリス 250000 平安京 2000…

1200年の都市人口

…のが、ディムヤート、平安京、大理(中国雲南)中国の諸都市が目立つほか、カンボジア(アンコール)やミヤンマー(パガン)の中心都市の中心性が高かったことも興味深いです。できたばかりの鎌倉が「世界第5位」になっているのも発見です。当時台頭してきた武家が開いた都市としていわば社会実験的なものだったといえるかもしれません(1250年には4位、1300年には5位でしたが1350年には25位までのリストから姿を消しています)。ここでは文明と文明がせめぎ合っていた西方に着目します。 マラケシ…

1650年の日本の都市人口

…000人をはさんで「平安京」が360000人で第6位、ラホール360000人、エスファハーン350000人とこのあたりはだいたい同数で第9位の大坂が346000人。ビジャープルが340000人で第10位です。 やや飛躍しますが、さきの「応仁の乱は地方分権」との時代や戦国期を経て、3都を中心とする、グローバルにみても都市としての中心性の高い近世システムが日本において1650年頃には確立し安定状態に入ったのだと。次に人口10万以上の都市は1つ。 金沢 114000 江戸幕府の、金…

『平安京はいらなかった』×『坂東の成立』

…を取り上げます。 『平安京はいらなかった』(桃崎有一郎著、吉川弘文館、2016.12.1刊。歴史文化ライブラリー438)と『坂東の成立』(川尻秋生著、吉川弘文館、2017.2.10刊。「古代の東国」第2巻)です。オリンピックや「人口減少社会」などにからんで、東京への一極集中が話題にならない日はない昨今。朝のNHKドラマ「ひよっこ」でも、1つ前の東京オリンピック開催を控えた東京への1極集中を描いていますね。 では、東京(関東)と京都(京阪神)という2極体制による日本の国土という…

世界の都市の進化と都市イノベーション[2024.4.29改訂]

…に変遷したか古代都市平安京は中国の強い影響で生まれましたが、その後、中世末期に城下町という日本独自の都市形態が出てくるまで、長い時間がかかりました。 b 中世都市はどうなっていたか 平安京から城下町まで b-1 京都の変容と国土/地域構造の変容 b-2 武家の都づくりからはじまる新たな地域拠点形成への道 b-3 たちあらわれる地域経済と城下町への道 b-4 自由・交易都市の生成 第3章 近代の芽生えと世界の一体化 ルネサンスを境に近代的思考にもとづく都市への働きかけが強まり、…

【in evolution】日本の都市と都市計画(2024.5.13更新)

…数々の都を経てやがて平安京へ結実するプロセスが動的に、かつ進化プロセスとして理解できるとともに、794年以降不動となった京都という首都において、おそらくは初動期においてさまざまな工夫=都市イノベーションがあったのだろうと想像します」と書いたことがきっかけとなり、これまで書いてきた日本の都市と都市計画をめぐる歴史のようなものを通覧できるページをつくろうと思い立ちました。けれどもそれは単なる「歴史」ではなく、興味の中心は「今までなかったことを革新的にイノベーションするその背景や方…

『都はなぜ移るのか 遷都の古代史』

…まな遷都を経てやがて平安京に至り「動かない都」になった理由を、それまでの都はまだ未熟な段階にあり、「ここが都である」ことを宮殿やインフラなどの「モノ」によって示すことはできたけれども、地方の豪族たちを従えられなかったことや、経済の未発達等がたび重なる遷都の原因だったとします。最終的には、条坊により区画された空間ユニットの中に、位に応じて、(いろいろな主人がいるのではなく)王権のみに仕える都市貴族が定着しなければならず、そうしないと都としてのまとまりがつかず、そのような凝縮した…

難波宮(大阪と都市イノベーション(その3))

…しながら、少なくとも平安京に都が移るまでの間、重要な役割を担った都市として注目されます。 この場所。大阪城もそうであるように、上町台地の突端(北端)に位置する、おそらくこの地を支配しようとする者なら誰もが都や城を築こうとするであろうポイント。信長がてこずった大坂本願寺もここにありました。 『東アジアに開かれた古代王宮・難波宮』(新泉社(遺跡を学ぶ095)、2014.8刊)は、まだ進化途上にあるそうした難波宮の意義を特に外交面に着目して描いた図書のようです。注文したので明日にも…

アジアからみる日本都市史

…学んで日本に平城京や平安京をつくりました」との素朴な理解をはるかに超えて、古代世界システムの中での唐を中心とする都城の形成が「チベット高原を統一した吐蕃、モンゴル高原のウイグル、中国大陸西南部の南詔、中国東北部の渤海、朝鮮半島の新羅、日本列島の政権が相次いで樹立され、長安に対抗する都城を建造して唐と外交関係を築き、国家の安定と維持をはかった」「都城の建造・整備は、貢納と外交のための行政都市網の構築と整備を必然とするところである」(p55)としたうえ、58〜59頁にはこの時期に…

纏向遺跡

…京、平城京を経て都が平安京に移るまでの日本の中枢地域の継承と断絶についての新たな仮説を打ち出した、たいへん興味深い図書でした。 こんな話がなぜ都市イノベーションかというと、この纏向遺跡。実は、「農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い事等々、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されている」(桜井市立埋蔵文化財センター編『纏向へ行こう!』による)とのこと。そしてこの遺跡の「調査面積は南北約1.5km、東西…