復興が転機となった横浜の近代建築 〜「防火帯建築の今」

9月8日(土曜)に、標記のセミナーが横浜で開催されました(主催はヨコハマヘリテージ)。「これ」といった図書が出版されたわけではありませんが、関連する活動や研究成果が地元で蓄積されてきていて(例として下記資料1)2))、このセミナーの基調講演(講師は横浜国大の藤岡先生)も「新たな発見」の連続でした。会場となった「吉田町第1共同ビル」もまさに歴史の生き証人。最近コンバージョンされた内部の見学会もあり、たいへん貴重な機会となりました。
横浜の防火帯建築。100メートルグリッドの街区の周囲に中層の不燃建築が立ち並ぶ独特の街並み形成は、戦災復興期の「都市イノベーション」の1つだったばかりでなく、ある意味、津波で街全体が失われた(あるいは今後失われるかもしれない)日本の市街地の復興のヒントにもなるのではないかと考えています。
そのシクミと実現に向けた努力はたいへんイノベーティブです。基本的には地主自身による復興。その支援のための法律(耐火建築促進法)、横浜市建築助成公社の設立、神奈川県住宅公社住宅の「上空」への供給(それがやがて「下駄バキ住宅」として普及)、区分所有法無き時代の独自の工夫(建築施工もたいへん)、そしてそれを単独ではなく都市レベルでデザインするための先述のような防火建築帯の指定。
こればかりではありません。接収により一旦「追い出された」店主の復活、新たな希望をもっての新規出店等々。さらに、立場を超えてその復興をリードした市の経済界、行政、技術者たち。
市の防火帯建築助成第1号の「港ビル」は1952年11月に完成。今から60年前のことでした。

□資料1)http://homepage2.nifty.com/datey/kannai200609.pdf#search='横浜関内地区戦後まちづくり史'
□資料2)http://www.mlit.go.jp/common/000211545.pdf#search='アーバンデザイン研究体%20関内関外'
□関連ブログ内記事⇒第51話