1650年の日本の都市人口

先週末11月4日の日経新聞朝刊文化欄に、「変わる室町観」と題した記事が掲載されました。小見出しの1つに「応仁の乱地方分権」との表現も。この記事自体は都市計画というより歴史学的視点のため、少し角度を変えて、日本史上はじめて、「都市」という形態が普遍的な形で叢生・定着しはじめたこの時代を、数字で見てみます。
「1500年の日本の都市人口」 (2017.6.19記事)では朝廷との結びつきが強かった山口が京都に次ぐ人口35000人を擁していたと推定されていますが、まだ「城下町」という形態が出てくる前のことです。
そこで、戦国期に国内の各地が争いながらやがて「城下町」という地方拠点の一般形が確立され、さらに江戸初期に全国経営的視点でそれが整理統合されて安定的な状態に落ち着いたと考えられる「1650年の日本の都市人口」を「1500年の日本の都市人口」と比較してみます。(データは斎藤誠治「江戸時代の都市人口」1984による。一部データの無い都市も)

まず、人口20万以上の都市は3つ。
江戸 430000
京都 430000
大坂 220000(1500年の「天王寺」と「本願寺」は足し合わされている)
それはそうでしょう、という内容ですが、これをグローバルにみると少し発見があります。横道にそれますが、 「1500年の都市人口」 (2017.5.2記事)でみた世界の都市人口が1650年にどうなったかをみると、700000人のイスタンブールに次ぎ江戸は500000人で世界第2位、北京470000人、パリ455000人、ロンドン410000人をはさんで「平安京」が360000人で第6位、ラホール360000人、エスファハーン350000人とこのあたりはだいたい同数で第9位の大坂が346000人。ビジャープルが340000人で第10位です。
やや飛躍しますが、さきの「応仁の乱地方分権」との時代や戦国期を経て、3都を中心とする、グローバルにみても都市としての中心性の高い近世システムが日本において1650年頃には確立し安定状態に入ったのだと。

次に人口10万以上の都市は1つ。
金沢 114000
江戸幕府の、金沢という都市への力の入れようがわかります。このあと名古屋が人口面で接近してきますが、1750年も、幕末の1850年にも人口は金沢が上回っていて、明治に入り2者の関係が逆転したのでした。

人口25000以上の都市(*は城下町)は以下のとおりとなりました。
名古屋 87000*
堺   69000
仙台  57000*
福岡博多53000*
鹿児島 50000*
福井  48000*
彦根  38000*
長崎  37000
米沢  35000*
奈良  35000
鳥取  32000*
山田  30000
岡山  29000*
会津若松27000*
甲府  26000*
山形  25000*

このあと多数の城下町が続くのですが、1650年までくると、今日の日本の都市、都市地域、都市の国土配置に直接つながる状態に近づいていることが確認できます。