記事タイトルの3つのコンテンツをa,b,cと省略し、都市イノベーションworld的に書きます。aは2015放送。bは2019.4公開。cは2019.4集英社新書。
西でローマ帝国が崩壊したあとも、中国では秦の始皇帝がシステムとして確立した大国の近代的運営方法が基本的には今日まで受け継がれている。aは、近年の始皇帝陵発掘をめぐる驚くべき発見(まだ仮説の段階だが)を、bは始皇帝の中華統一のはじまりの段階を(漫画連載ではかなり進んでいるらしい)、cは統一の極意をbの漫画に描かれたシーンを引用しつつ扱ったもの。
aの驚きに絞ると、350メートル四方で高さ53メートルの始皇帝陵がいわゆる皇帝の墓だと思っていたら、実は、7.5キロ四方の都市的スケールの範囲で副葬品と思われる像や品々が地下から発見されている。陵に隣接する長さ700メートル(幅200メートルほど(画面から読み取るおよその寸法))の区域には当時の宮殿を再現したと思われる箇所やそれらを囲む城壁や門が。これはすなわち都そのものを模したのではないかと。1974年に発見された兵馬俑は、そこから伸びる街路の傍らにつくられた都の護衛兵を表しているのではないかと。始皇帝は13歳で王に即位した直後からこの空間を築きはじめ、39歳の全国統一を経て、50歳で没するまで自らが確立した近代的官僚システムのありさまを擬似的に、都の形も与えながらここに表現・記録したのではないか。今、私たちがこの地を掘り返すことによって、中華帝国として継承されてきた国家運営の極意のようなものが読み取れるのではないかと。
紀元前3世紀の新たなストーリーです。
秦の首都は咸陽。Googleマップ見ると、このあたりは咸陽の東40キロほどの場所。咸陽の東にその後長安が築かれたので、長安からみると始皇帝陵は東北へ20キロほど。その長安もどんどん拡大しているので、既に始皇帝陵は長安大都市圏に飲み込まれている感じです。
bやcも合わせて秦について知ることは、「すべての道はローマへ通ず」のアジアバージョンを知ること。今後の発掘と研究の成果が楽しみです。
[関連記事]
・『アジアからみる日本都市史』
https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20130319/1363673208
本記事を「世界の都市と都市計画」(古代都市と都市文明の形成) に入れました。
https://tkmzoo.hatenadiary.org/entry/20170309/1489041168