『ローマ人の物語』文庫版も第40巻まで読み進み(全43巻)、コンスタンティノポリスの建設(330年から)も進んで、キリスト教がかなり強くなってきました。ローマの有力者たちは次々にコンスタンティノポリスに移り住み、やがて西ローマ帝国は「滅亡」します。
そこで、「紀元前後の都市人口」「800年の都市人口」の間のこの時期の都市人口をみておくことにしました。いつものチャンドラーの推定人口の「361年」というのを使います。
コンスタンティノポリス 300000
クテシフォン 250000
パータリプトラ 150000
ローマ 150000
建康(南京) 150000
アンティオキア 150000
アレクサンドリア 125000
鄴(ぎょう) 120000
テオティワカン 90000
長安 80000
既にコンスタンティノポリスがローマを上回り、ローマはこのあとますます衰退していきます。ローマ帝国のアレクサンドリアも紀元前後は250000だったので半減。ペルシア(クテシフォン)、インド(パータリプトラ)、中国(建康など)それぞれの文明のこの時期の中心地が名を連ねます。後に最盛期を迎える長安が顔を出しています。テオティワカンはメキシコシティの北50キロにある当時の文明の中心地。
現在は廃墟(古代遺跡)となっている都市も含まれていますが、ローマのように超衰退したのち復活して大都市になっている都市もあります。日本の人口はこのとき、全部集めても100~150万人しかおらず、「都市」そのものが未発達。このチャンドラーの表の上位に日本の都市がはじめて入るのが、ここからおよそ300年後の622年「飛鳥 50000-60000」で、当時の23位とされます。
おそろしやローマ帝国。おもしろや都市文明の盛衰。
【in evolution】世界の都市と都市計画
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